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本なんぞを読んでいる。
じっと縁側で雨水を足の指先に浴びながら、それにも気づいているのかいないのかそれでもただじっと、本なんぞを読んでいる。
ジャンは不機嫌だった。もとい不機嫌になった。そこまでして本が読みたいのか、それは面白いのか。俺を後ろにほったらかしにして。
「おい、」
「……」
「おい御神苗、」
「……」
「おい!!」
「…ん、ああ。何だっけ」
まだ何も言ってない、と不機嫌さをわざと声に出して続ける。その間も優は空から降り注ぐ激しい雨水に足の指先をさらしていて、本から目を逸らす事もしない。ぴちゃぴちゃと美しく整えられた庭の小さな池を鳴らし、指先のすぐ下の庭下駄はすっかり濡れそぼってしまっている。
京都。よほどの用がなければ決して訪れないであろう。元は優の元に来た任務だった。ジャンはそれについてきただけ。アーカムビルの部屋に一人にされてはたまったものではない。何のために日本に来たのか分からない。
京都は混沌としている、と言う。難しいことはジャンにはほとんど分からないが、任務を重ねるごとに勘を良くしていった優にはそれがまるで形を帯びているかのように分かるのだそうだ。視覚にも、聴覚にもくる。気分が悪くなり、めまいがすることがだってあるのだと。
だからジャンは京都というところがあまり好きではなかった。歩き回ると優が体調を崩して可哀相であるし、それに自分もどうも落ち着かない。どうやら感覚的に感じられるものはゼロではないらしい。
滞在する土地はあまり良いとは言えないが、滞在するところはなかなかのものだった。しかしそんな宿の部屋に篭って時間をすごせるほど二人は大人でなかった(ひとりは完全に成人であるのに)のだ。しまいには本屋で適当に選んだ最近のベストセラーの文庫本を読み時間をつぶしている。一人を除いて。
「…それ、そんなに面白いのかよ」
「んー…?、ん、まあ、それなり…」
「外出ねえか」
「やだよ、ひでえ雨じゃねえか」
「……」
「晩飯何にする?」
「んー…ああ…」
曖昧過ぎる返事にジャンはとうとう痺れを切らし行動に出た。縁側に腰掛け本を読む優の背後に座ったまま這うようにして近づき、優の背にぴったりと腹を張りつけ、丁度、真後ろから抱き込む感じ、幼い子供に絵本を読み聞かせる父親のような格好を取る。
「わ、おい、ジャン、」
「晩飯は湯豆腐」
「さっき聞いたぜ」
「嘘だ聞いてなかったくせに」
こんな暑いときにそんなもん食えるか、とジャンは舌を打つ。
「聞いてたよ。それより、おい、こら手、どけろよ…本が読めねえだろ」
「嫌だね」
「ジャン、あのなあ」
「じっとしとけ」
放ったらかしにした罰だ、とジャンは優の両目を覆った手もそのままに目の前の首筋に鼻先を埋める。優が一瞬息を詰めたのが分かったがジャンはなかなかそれ以上進める気もない。
取り敢えずジャンの優を本から取り返す試みは成功したのだ。戯れつく猫のように優の髪に頬摺りをしたり首筋やうなじに口唇を落とす。くすぐったい、と笑う優は既に文庫本を隣に手放している。ジャンは気づかれぬ様素早く本をさらって後ろに隠した。
ジャンはびしゃびしゃに濡れてしまった優の足の指先を後で綺麗に拭いてやろうと思いながらも、この状態からしばらく動くつもりはなかった。
「雨、まだ降るよな」
「だろうな」
「どっか行くか?」
「さっき雨が嫌だって言ったろうが」
「お前退屈そうだから」
「それはお前もだろ」
庭先では紫陽花が雨に降られて揺れている。目の前で揺れる黒い髪がいつもよりずっと艶やかにジャンの瞳に映った。梅雨の京都が、少しだけ好きになった。
●2007年05月19日
梅雨の時期の京都も良いかもしれないですね。真夏か春か秋しか行った事無いんですけど。
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で、あんたはどうすんの?と初音は言った。悟はうーんと首を傾げた。
二人が立つそこには新品の衣類や疎らな人やこの手の建物独特のにおいがしていた。
嫌いなにおいではない。
「この休みに買わないと、もう時間ないわよ?」
「…いやあ、そうなんだけどさあ…」
あんた基本的に休み少ないんだから、と初音の腕にはいくつか上等な薄青色のブランド名の刺繍が入ったハンドタオルがあった。いちにいさん、と枚数を数えてはどうするの、と言う。
悟は困っていた。お金はあまりない。しかもどうにも少し、
「あのさあ、何か…ここまで来て今更、って感じがしない?」
恥ずかしい。
初音はあら、そんなことないわよ、と少し声のトーンを高くして言った。
「…でもさあ、多分、こういうのいっぱい持ってるんだと思うんだよなあ」
きっとすんごい高いブランドとかのやつを、女の人から貰ったりとかしてさあ、とまた目の前の別の柄を手にしては元の棚に戻す。二人が立つ目の前には沢山の柄のネクタイが並んでいた。お金も無いし、と居心地悪そうにきょろきょろと辺りを見渡す。
「分かってないわね、こういうのは気持ちよ、き・も・ち!」
きもち、ねえ、と増々難しそうな顔をして新たな柄を手に取る。
「なあ、それって安物でも良いってこと?」
「ちょっと違うような気もするけどまあ、」
そんなとこじゃない、と手元のハンドタオルの枚数を数えながら言った。
* * *
「やっぱりさあ、…百舌鳥さん、これ要らないと思う」
帰りに寄った喫茶店で悟が足元に置いた百貨店のマークが大きく入った紙袋を見ながら言った。何を今更、と初音はオレンジジュースのストローの包みを破りながら笑う。
「言ったでしょ、気持ちよ気持ち。いつもありがとーっていう気持ち」
「…なあ、いっそ初音が渡してくれよ」
初音が渡したんならそんな安物に見えないかもだし、バレても怒られないだろうしと悟はコーヒーのミルクの蓋を開けながら言った。初音は少し意味深に微笑んで、ほんとに分かってないわねえとチッチッと人差し指を立てて目の前で振ってみせた。
「あんたじゃなきゃ意味がないのよ」
あんたにお金がなくて時間もなくてセンスも微妙だってことは当然、百舌鳥さんも分かってるわよ。そう楽しそうに言って隣に置いた自分の買い物の紙袋をぽんと軽く叩く。
「いつも迷惑掛けてすいません、これからもよろしくお願いしますって渡すのよ」
そんなの、百舌鳥さんがその日誰に貰って一番嬉しいかって、あんたに決まってるじゃない?初音はくるくるとグラスの中をストローでかき混ぜながら言った。
悟はそうだろうか、と紙袋の中から『お父さん いつも ありがとう』のメッセージカードがついた箱を、首を傾げながら少しはにかんで見つめた。
「でも、さすがにこれは外したほうが良いよな」
●2007年05月23日
初音ちゃんのはお店でお仕事してるおじさんたちにあげるんだよ。
百舌鳥さんは結局文句を言うんだけれども、なんだかんだ気に入ってくれるはずなんだ。
悟がかわいくて仕方ないからね。
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宿題を終えてリビングのソファーでぼんやりとテレビを観ていると、美沙が先程手渡した箱の中から取出した赤色のマグカップと、普段から涼が使っているマグカップにカフェオレを入れてキッチンからでてきた。
その表情は嬉しそうで、そしてどこか笑い出しそうなのをこらえているような、そんな感じ。涼はそんな母の顔を見、少し首を傾げながらその手からカップを受け取った。
「ねえ涼ちゃん、これ、覚えてる?」
「へ?」
そう見言いながら美沙が嬉しそうにエプロンのポケットから取り出した紙切れを見、涼は怪訝そうに目を細めた。
「…何だっけ、それ」
「あら、忘れちゃった?」
美沙は涼の隣に腰掛けカップをテーブルに置き、その小さな紙切れを両手の指で持ってピンと広げてこちらに見せた。
「…あ…」
「懐かしいでしょう?ずーっと持ってたのよ」
ずーっと。前に住んでたところが大変なことになっても、探して取ってきて。
と、美沙は目を細めその小さな紙切れを大層愛しそうに見つめた。昔は腕のなかに納まるくらいに小さくやわらかかった涼のからだは、いつのまにか美沙の背を追い抜いてしばらくになる。美沙は自分より少し高い位置にある涼の目を見、「これ、まだ有効かしら?」と聞いた。
涼はそんな母が可笑しくてすこし笑うと立ち上がり、それをいつかの今日に母に手渡したときよりもずっと大きく硬くなった手を母の両肩にかけた。
「いつの間にか…プレゼントを買ってきてくれる歳になったんだものね」
「ああ」
「でも私、こっちも嬉しいわ」
涼はあまりくたびれず凝っている訳でもない肩を、力の加減をしながら揉んだ。幼い日の自分はどれだけの力と手の大きさで今と同じ動作をしたのだろうか。覚えているのは母は今のようにソファーには座っていなかった。母は床に座り、自分はその真後ろに立っていた。
そうでなければ自分の手は母の肩に届かなかったからだ…。
「あーあ、とうとう使っちゃった」
「またあげるよ」
「あら、本当?」
ラッキー、と母はカフェオレに口をつけながら、子供じみて手元の小さな紙を嬉しそうに揺らした。涼はじっと幼い日の自分を労うような気持ちで母の肩を叩いたりしていた。
その決して真っすぐには切り揃えられていない不器用なノートの切れ端らしき紙には『かたたたきけん おかあさんへ』と拙い色鉛筆の文字が綴られていた。
涼は美沙が玄関で公団の回覧板を受け取りにいっている間に、部屋に戻り可愛げも無く黒のボールペンで『肩叩き券 母さんへ』としっかりした漢字で綴った紙を作った。
●2007年05月18日
色々あり過ぎたけど美沙ママは美沙ママのまんまで、涼ちゃんは涼ちゃんのまんま。
だけどきっと涼ちゃんはそこらへんの男の子よりも母さんには色々したいと思っていると思うんだよ。
できた息子さんだからね!
△拍手お礼ログでした。
季節とか月ごとにお礼を変えていこう、ほらその行事にあわせて!と算段してたんですがどーにも…(笑
案外間に合わないというかわたしがヘタレてるというか…。諦めました(汗