「なあ、こいつ、どうすりゃいいかな」
いつか見たような光景だった。背景は違った。あの時は団地前だった。今は、小さな細い路地に居た。それに今の季節は冬だった。
しかし、表情は似ていた。彼女も確か不安を湛えて悲しみにくれたような顔をしていた。自分はそんな彼女の手を引いた。だから、今度もそうしようとした。右手を差し出そうとした。
するとその前に相手が動いた。
「…埋めてやらなきゃ、な」
小さく、かすかに、笑った。
新宮隼人は、真冬の寒さのなか、手袋をはずした白い手で、車に轢かれたのであろう血を流した小さな小さな白い子猫を抱いていた。その体の冷たさは、きっと外気の寒さと大差なかっただろう。そして子猫を抱く彼の手も。
子猫の体は、そのそばの空き地の、背の低い木の下に埋めた。
自分は乾いた材木の破片か何かを持ってきて、野良犬なんかに触られないように深い、深い穴を掘ってやろうとした。土を掘り返す間、彼は穴を掘る自分の後ろに控え、ずっと寒い外気に触れたまま、素手で子猫の体を抱いたまま、土が掘り下げられるのを黙って見ていた。
しかし打って変わって、とても淡泊な表情をしていた。
「ほら隼人、穴、」
「ああ、おう」
声をかけると、彼は音もたてないくらいに歩み寄って穴の前にしゃがみ、冷たい地面にそっと子猫の体を横たえた。
華奢で痩せた体に柔らかくしなやかだったろう白い毛や張りのあった皮膚や腕や腹(今は外気による結露と死後の硬直によりすっかりとかさついている)には点々と血がいている。それにいよいよ土を被せようとしたとき、彼はぽつりと言った。
「名前、あったんだぜ、一応」
あまり表情なくすらすらと独り言のように続ける。しかしいざ名前を述べる段になって言葉につまって、じろりとこちらを一瞥した。なんだ、と問うと、笑うなよ、と言う。なんだそんなこと。笑わないさ。
「…イエスっつー名前」
「イエス?イエス・キリストか?」
彼が最初にこの猫を見たのは、この空き地の近所にある教会の前だったと言った。
今日のように寒い日で、スーパーに夕ご飯の買い出しに出た帰りだった。ぴゅん、と歩道を横切ったので何かと驚いて、その白い影が飛び込んだ教会の庭を覗いた。するとそこには、この小さな白い子猫が、同様に金色の瞳を丸く見開いてこちらを振り返えっていた。
しゃがんでちっ、ちっ、と舌打ちすると一瞬迷ったような動きをしながらも、ゆっくりと近寄ってきた。足に擦り寄ってきたので、妹に頼まれていたクリームパン(案の定帰宅し文句を言われたが)の袋を開け、小さくちぎって差し出すと、小さな口を精一杯開き、一生懸命に食べた。頭を撫でると、に、と鳴いた。マフラーしかしてこなくて、息が白くて指先はひどくかじかんでいたけれど、気にならなかった。
それから何度か目にすることがあったらしい。教会で見つけたから、イエス。なかなか洒落た名前をつけたものだと思った。
彼はゆっくりと穴の底に横たわった冷たい子猫を凝視していた。そしてそっと、赤くなった指先で、体を撫でた。そしてじっと、腹の辺りに手を置いた。自分には、それがまるでその手に残る少ない体温を、子猫の体に分けてやるように見えた。そしてふ、と白い息を吐き出すと、土をかけだした。
「ごめんな」
小さな声で、寂しそうに笑った。じじいに何か言われても良いから、連れて帰ればよかったな。ごめんな。
素手のまま、冷たい土を子猫の体にかけていく。泣き出してしまいそうな気がして、そっと隣に同じようにしゃがんで土をかけるのを手伝った。彼の真っ赤な手は、すぐに土で汚れた。
子猫はすっかりと地面に埋まった。深く掘った穴だ。誰かに掘り返されることもあるまい。猫はこのまま、きっと土に還る。
すると隣にしゃがんだ隼人は、胸の前で凍てついた指をきゅっ、と結び合い、目をつぶった。
「イエスだから、キリスト教だろ」
自分はそれを見て、目を細めた。そして隣にしゃがんで、同じように祈る格好をした。白い息を吐いて、道路に横たわる体を抱き上げ、小さくか弱い子猫のために祈る。子猫がイエスなら、隼人はマリアだ。そんなことを口に出せば何を言われるか分からないので言いこそしないけれど、そう思った。
きっと猫は感謝している。猫の気持ちは自分には分からなかったが、きっと幸せに違いない。こんなに大切に抱いてもらったんだもの。温かかったに違いない。体温を分けてもらったのだから。
「じゃ、帰るか」
ぱっ、と顔を上げて立ち上がり、手についた土を払う。自分はさっきまでのことを思うと、手を冷たくした彼が愛しくて仕方がなかった。無性に、どうしようもなく、今彼に何か出来ることはないかと思案した。
案の定大したことを思い浮かべることもなくて、持て余して、とりあえず、右手を取って、両手でぎゅっと包むようにした。相手は驚いたような表情をして、それから少し顔をしかめて、それから笑った。
「やめろよ高槻。猫の死体触ってたんだぞ。汚ねえだろ」
「イエスの体が汚いわけないだろ」
「…そうだけどさ。お前も冷たいし、手」
左手もとって温める。冷たい。すっかり芯まで冷えている。あのときは、こんなことをする必要はなかった。季節は夏だったもの。手が冷たくなるはずなんかないのだ。
だからなお更温めた。あの時の分を兼ねるように、じっと、ただじっと、相手の手を指でこするように撫でて、猫にあげたぶんを補充してやるように、自分はただ優しい彼の手を握った。
外気は冷たかった。鼻の奥がツンと痛んだ。相手はじっと握られた手を目を細めて見つめていた。早く、早く春になればいい。優しい人の手を温めるには、自分の手の温度だけでは、まったく足りないのだから。
●2006年11月17日
◇2009年06月07日 多少修正
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