小さい頃、母に手を引かれ妹の手を引きよく連れていかれた大きな駅が、巴武士はあまり好きではなかった。

 物心ついて初めてそこを訪れたとき、母は幼い自分に、「線路に近づきすぎては駄目よ」と、注意深く教えた。
線路に落ちて電車にひかれたら、大きな怪我をして死んでしまうかもしれないのよ、とも言った。
 それを聞き、巴武士は自分よりもっと幼い妹の手を、強く握った。だから、巴武士は駅があまり好きではなかった。もとい、線路が好きではない、正確には線路に落ちてひかれるかもしれないということが怖かったのである。

 年月を重ね大きくなるにつれ、巴武士は大きな悩みを抱えることとなった。
何度も転校を重ねたものの、結局何も変わらなかった。理不尽だと思ったし、そう思うほど辛かった。いっそ死んでしまえばどんなに良いだろうと思うこともあった。学校の屋上に、よく足を運んだ。
 一度だけ、一度だけ本気で飛び降りるつもりで昼休みに上ったことがある。
酷く風の強い日だった。安っぽい青色に白い雲が、肉眼で観て先を急ぐように流れ動いているのが分かった。
背中が風に煽られてよろめいた。見下ろすと、グラウンドにちらほらと人を見た。いざコンクリートの縁に立つと、ぱらぱらと砂がグラウンドに着く前に風に攫われて消えていった。情けなく膝が震えていた。怖かった。
飛び降りることは出来なかった。悔しくて、悲しくて、涙が出た。


 それからしばらくしてからのことだった。沢山雨が降った日で、ひとり駅で電車を待っていると、肩がぶつかった。
相手の中年の男は「失礼」と言って出口の方に向かっていった。巴武士は電車に乗り込もうと待つ他人の群れの列から離れ、人の少ない端の方へ移動した。錆びた線路もその周りに落ちている石ころもすべてすっかりそぼ濡れていた。たたんで手に持った透明のビニール傘が、ジーンズを黒く濡らした。
そうして不思議にどこか遠いところから駅の端に立つ自分の姿を見下ろしているような感覚で、じっと線路を見た。



だれか、僕の背中を押してくれないかな。



それも同じように、遠いところから思った。


勇気がないから、だれか、思わず、弾みで、僕の背中を、突き飛ばしてくれないかな。
じっと、雨の音と、雑踏に耳を澄ませて、黙って、立って、待ったけれど、結局。巴武士は線路に落ちることなく、間もなく到着した電車に乗り込んだ。



「武士?」
「あっ、うん」
「大丈夫か?」
「ううん、大丈夫。何でもないよ、ちょっと」

考え事。昔の、大変だったときの。

高槻涼は正面、線路を挟んで向こう側を見つめたまま少し目を細めると、巴武士の背をぽん、と叩いた。電車の到着を知らせるアナウンスが流れた。

巴武士は、やっぱり線路が怖かった。今も、そして、これからも。












●2006年11月21日 
BackGroundMusic:ギャンブル(椎名林檎)

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