人の影は自分達以外にほぼ無い。白い壁にはめ込まれた電子時計は21:23という数字を、黒い平面に黄緑色の光でもって表している。同じく白と金属で出来た背の高い椅子に腰掛け首から赤いホイッスルをかけた監視員の目も疲れている頃。
 その大きな四角い水溜りを挟んだ右側のガラス張りの壁から夜の闇が入り込み、逆に内側から外側に照明が漏れていた。天井の広い窓の端の方には黄色くて丸い月までもが見えた。
 静寂のなか、その建物の内部はみずみずしさで満ちている。


「お前さあ」
「何?」
「高槻が好きなのか?」
「はぁ?」


 恵はプールサイドに座る隼人を見上げながら思わず高い声を上げた。声量はたいしたことはなかったが、夜9時過ぎの温水のプールには十分過ぎるほどだった。くわん、と響き渡る。


「…なんでよ」
「…だってお前、俺見るとすぐ高槻は?って聞くだろ」


 恵はいくつか瞬きをするとふき出した。隼人はそのまま怪訝そうな顔でプールに浸けた足をゆらゆらと動かした。恵はプールの真ん中の方を目指し泳いで行った。


「高槻はじゃんけん負けてジュース買いに行った」


 3本、と右手の指を三本立てさっきよりも大きな声で言った。恵はふうん、と答え更に向うの端まで泳いでいった。隼人は足を浸けたままその様子を目で追った。恵はゆったりと背中で浮きながら照明に目を細めた。顔と飾り気の無い水着の胸と腿が白く水面に浮いている。隼人はぼんやりとそれに見とれた。


「ねえ、あんたも泳いだら?」
「いや、良い。もう疲れた」
「競争しない?」
「だから良いって」
「あたし、速いわよ」
「…分かったよ…」


 隼人は渋々腰を上げプールサイドを歩いて端まで移動した。ぱしゃんぱしゃんと恵が水面を掻く穏やかな音が響く。そして不意に恵が口を開いた。


「あんたたち、2人でワンセットみたいな感じだから」
「はあ…何だそれ」

 隼人はプールに入りながら答えた。恵はそのすぐ隣まで来て、それからプールサイドに上がった。

「だから変な感じがするのよ」


 なあんか隣が寂しくて、と首を傾げとんとんと片足でとび跳ねながら笑いもせずに続ける。隼人は何だか良く分からないと難しい顔をしながらその恵の様子を見上げていた。


「いい、用意スタート、だからね」
「フライングすんなよ」
「よーい、」
「ちょ、早いって」
「スタート!」


 隼人がプールの壁を蹴ると同時にざぶん、と恵が飛び込んで気泡の群れが起こった。眠そうにしていた監視員がピピーッとホイッスルを吹いた。しかし構わずそのまま泳ぎ続ける。水中を明かりが揺らぎ、隼人は自分のすぐ前を行く少女を追いかける。顔を上げるたびに飛び散った水滴に光が跳ね、水を掻き分ける音が耳を満たす。
 先に指先が壁の淵にかかったのは、恵のほうだったように思える。


「…わたしの勝ち」
「…そうかあ?俺のが速かったぜ」
「いいや、恵のが速かったよ」
「ほらね」
「ち、」
「ほら、これで良かったか?」
「サンキュ」


 恵はもうすっかり着替えてしまった青年の手から適当なスポーツドリンクのペットボトルを受け取り、すぐにキャップを開け口に含むとまた返し、向こう側を向くとプールの壁を蹴って泳いでいった。隼人はそのまま胸下までをプールに漬けその薄青色の壁にもたれたまま涼と話をしている。何を話しているのかは明確に恵の耳には届かなかったが、「もう着替えたのかよ」という隼人の声だけは聞き取れた。そう言われて涼は穏やかに笑った。穏やか。ぴったりだった。それから隼人が涼のシャツの胸の辺りを掴むので、涼は不思議そうに耳をその口元に近づける。隼人はその耳に向かって何かとても楽しそうに話している。涼はそれを聞き苦笑う…

(ほら見なさいな)

 睫毛についた水滴に照明の光が弾ける。ちょうど真ん中くらいで動きを止め、目を細めてそのまま背中で浮いてぼんやりと漂う。
 両手を広げて十字架にはり付けられる殉教者のような格好だ、と思いながら遠くの会話にどこか耳を済ませ目をつぶった。体の周りを漂う水は心地良い。しかし口の中は先ほどのスポーツドリンクの甘ったるいところだけが残って、あまり具合は良くない。


「恵!まだ泳ぐか?」
「泳ぐわ!」
「俺先いって着替えるぞ」
「分かったー!」


 恵は背中で浮いて、相手の顔を見ることもなく返事をした。監視員が「閉めますよ」と声をかけるか、アナウンスが「当館は10時に閉館いたします」から、とうとう「閉館するので出てってください」に変わるまでそこにいるつもりだった。水は心地良い。
 カツミもくればよかったのに、と、恵は相変わらず天井を見上げながら思った。今度は女だけで二人で来ようと思った。昼間にきたら、帰りに甘いパフェだって食べられるし、買い物だってしていける。
 恵はぐるん、と体を捻ると一度その場に立ち上がりプールサイドへ向かって泳いだ。そして岸に一度上がると、監視員のホイッスルも無視をしてまたざうんと飛び込んだ。電子時計は21:45を表すころ。
 あたしは高槻がすきなわけじゃない、あんたらが好きなのよ、と。










●2007年07月15日 
思うとこの3人ってちょっと変な均衡を保ってるような気がする…。
見守る恵ちゃん。


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