任務を無事終了し専用機で日本まで帰る。その機内、ジャン・ジャックモンドのすぐ隣のシートでは青年がすやすやと寝息を立てている。ついさっきまで楽しそうに学校での出来事を語っていたというのに。
さら、と前髪が一束、閉じられた瞼に触れた。そっと瞼に指が触れてしまわないようにしてどかしてやる。長い睫毛が少し揺れ、急いで指を引っ込める。ん、と小さく呻くとまた深い眠りへと戻っていく。
(キスをしても良いだろうか?)
良いよな、大丈夫だよな、ほんのちょっとくらい。誰も見てないよな、うん、良い、大丈夫。とジャンは誰に問うわけでもなく自問自答しそわそわと周囲を見回し、じっとその小さく開けられた柔らかそうな口唇を凝視する。しかしやがてらしくもなく少し遠慮気味にその青年、御神苗優の頬に唇を寄せた。
小さくちゅ、と音を立てて離れる。優はもう声を出すことも身じろぎをすることもなかった。ただ感想も言わなければ微笑んだり嫌がったりもしない。ただふんわりと閉じた瞼の裏でものを見ている。もしかすればうつつの世界にジャンの姿があったかもしれないが、それは分からない。そしてそんな無防備な横顔に見惚れた。
(頬とか食えそうだな、なんか。やらかい、なんだっけ…)
ういろう、だったっけ。あの甘いの。ピンク色のやつ。あれみたいな味がしそうだ。ぼんやりそんなことを考えてはすぐ隣で寝入る横顔を見、改めて笑みを零す。それはひどく一方的な、それでもとびっきり優しくてくすぐったいキスだった。同時にそれはジャンの持つすべての愛情を秘めた特別な行為だった。
思えばこれが、「一番初め」のキスだった。
* * *
隣で男が転寝をしている。外ではひょうひょうと吹雪が吹き荒れているとき。
足元に立て掛けた男の愛銃が音を立てて床に滑り横になった。静寂の廊下でのその音に心臓を跳ね上げる。座っている長椅子の横の缶のゴミ箱の中で缶ががしゃんと鳴った。また少し、驚いた。
優は長椅子から降り、そっと倒れたジャンのSPAS12の愛銃を元のように立てかけた。男はよほど疲れていたのかうんともすんとも言わず、ただひたすらに寝息を立てている。先ほどまですぐ隣で缶コーヒーを飲んでいたはずなのに。
(ずりぃな、美人でやがって)
優はその場、ジャンの真正面にしゃがんだままじっとその伏せられた睫毛や整った鼻筋やきゅっと閉じられた形の良い口唇を凝視した。先ほどまで缶に触れて、寒さに愚痴をこぼしたその、口唇。長く伸ばしひとつに束ねた髪がさらりと肩から胸に滑り落ちた。
ほぼ無意識のことであった。気が付いたときには生身の自分の人差し指が男の口唇にそっと重なっていた。温かく、そして柔らかかった。驚いて急いで指を引っ込めた。男は相変わらず寝入っている。良かった、気づかれなくて。優はほっと肩を撫で下ろした。
心臓がどきどきとなっていた。指先がじんとしびれた。急に恥ずかしくなって体温が上がるのを感じた。決定的だった。
優にはまだ「これ」が精一杯だった。
* * *
雨が多いから気をつけろ、ヘリの操縦士はそんなことを言いながらもと来た空の道を引き返して行った。任務により訪れた先はほぼ密林である。蒸し暑くそして湿度がひどく高い。寒いのは中に着込めばいいし、火をおこせばそれなりの体感温度の上昇を図ることも出来る。しかし、暑いのはもうどうしようもない。脱ぐ、それに尽きる。着ているものをなぎ払っても暑いのはもう耐えるしかない。あとは水を浴びる。
しかしこんなところに安全の保障を出来る多量の水は存在しない。大抵流れる川の水は底が見えず濁っていて、何が生息しているのかすら分からない、そんなことが多いのだ。そんなそばから一番近くを流れる川で、何かがじゃぼんと浸かる音がする。
「あっちー…」
「馬鹿野郎、暑いって言うから暑いんだよ」
「…じぁあ寒い…すげえ寒い…」
「やっぱ止めろ。…もう何も言うな」
遠くでばさばさと鳥の羽音と木々の揺れる音がした。先ほどからそんな音ばかりが耐えない。現地スタッフにより案内された森を掻き分け存在する木の無い平地の上、張られた簡単なテントの下でかすかな霧のような雨をしのぎつつ、御神苗優とジャン・ジャックモンドはヘリの中で着用していた深い緑色の軍服などさっさと脱ぎ去った上でそれでもまだ暑さと湿気に項垂れていた。操縦士はきっと「雨が多くて湿気がひどいから気をつけろ」と言いたかったのであろうと遠い頭で考えた。もう何度も訪れているので知ってはいるもの、気を抜くとついつい弱音を吐いてしまう。
そしてそれは派遣されたスプリガン二名に限ったことではなく、同時に派遣された発掘班の人間やその他の救護班やもろもろの処理班も同じであった。皆テントの下でひじをついでぼうっとしていたり居眠りをしていたり、暑さを紛らわそうと世間話を決め込んでいる。
「何時から発掘開始だって?」
「2時間後だとよ」
「うげ。2時間もこのまま待機かよ…」
湿気と霧雨と流れる汗により顔を濡らしそれをタオルで拭いながら優はため息をついた。いっそのこと何かに手をつけていた方のが幾分か暑さに頭が行かなくなるからである。
一方のジャンはなんだかんだ言いながらあまり気にしていないようだった。それどころか逆に機嫌が良い。二人が会うのはこれで一ヶ月ぶりだったからだ。
ジャンは時折隣に立つ青年の横顔を見つめた。遠く際限なく広がる緑を大きな瞳に映し、たまに手元のペットボトルの水に口をつける。かと思えば少し首をかしげてため息をつく。今日これで何度目のため息であろう。
普段からくるくるとよく動く人間だ、じっと暑いのを我慢して動かずに居ることが相当退屈らしい。会えば恒例の学校のことや最新の任務で大変だったこと、面白かったことの報告。それが終われば物を食うか飲む。そしてそれが終わったころ眠気が差していれば居眠り、そうでなければ愚痴をこぼす。しかし今日はそのうちのすべてをやりきってしまって、おまけにジャンの長い髪を解いて最近覚えたばかりなのだとすっかり三つ編みにしてしまった。どれもこれも好んで好きなようにさせていたが、こちらも同様に話して居眠りをするか飲むかしかないので、すっかり退屈の回避のすべを残していなかった。しかしこちらとしてはもうしばらくこのままでも構わない。見飽きない、飽きない飽きない。
「…なんだよ」
「別に」
気が付いたのかこちらを怪訝そうに振り返る。広大な緑を映していた黒い瞳に少し驚いた自分の顔が映ったのが見える。それだけで嬉しい。手元のペットボトルの水を頭から被る。黒いタンクトップから覗く、水滴の滴る鎖骨がとても艶っぽい。
そんなとき、雨だ、と誰かが叫んだ。そして次の瞬間には轟音とともに猛烈な勢いで天から水が降り注ぐ。シャワーというよりも蛇口の水、だ。おまけに強風である。雨は縦になったり横になったりしながら地面を叩く。スコールかね、とジャンは口の中でつぶやいた。
「スコールか?」
前髪を風に吹かれながら、雨の音にかき消されまいといつもより大きな声で言う。そしてその言葉の語尾には少しの笑みを滲ませている。降り注ぐ豪雨を見つめるその目はまるで格好の遊び道具を見つけたときの子供の目だ。にやりと嬉しそうにこちらを見遣る。青年のこの目は何か良からぬことを考えている目だ。しかしこういう目をするこの青年の行うことにしたがって退屈をしたためしはほぼ、無いに、等しい。
「なんだよ」
こちらもそれが分かっているので何をしでかすのか口元に笑みを隠しきれないでいると、優は目にも止まらぬ速さでジャンの右腕を掴み、テントの下から轟々と水の降り注ぐ赤土の地面へと飛び出した。同じテントの中で雨の様子を困った顔で見つめていたスタッフは驚いて目を丸くした。
ジャンも意表をつかれ思わず声を上げグローブを嵌めた手で頭を庇うと、優は降り注ぐ雨を諸ともせず腰に手を当ててさも楽しそうに笑った。その笑顔の魅力的なことといったら、ない。
「お前なあ…馬鹿だろ」
「うっせえなあ!暑いんだからちょうど良いじゃねえか!」
「どうせテントの中に居たって、横殴りじゃあ意味ねえしよ」
天然のシャワーだよ、と相変わらずの声量で笑いながら言う。もうすでにすっかり髪を濡らしてしまっている。それを見、ジャンも耐え切れなくなり声を上げて笑った。周囲のスタッフは何が起こったのか良く分からないといったようだったが、若いスタッフが二人と同じように外に飛び出し、その身体に打ち付ける雨の激しさに驚きつつも笑った。
ジャンは御神苗によって結われた三つ編みを解いて頭を横に振って絡んだ髪をほぐした。優があーっ、と残念そうに声を上げた。後でまた結ってくれと言うと、もう面倒くせえからやってやんねえと言う。ガキだなあと思いつつ、思わず目を細める。ああ、なんて無邪気でなんて単純明快、そしてなんて愛しい。
二人は終始笑いながら強い雨に打たれ、ブーツを跳ね上がる赤土で汚した。
ゆるくぬるい風を残しつつ、雨は一時を境にぱっとやんでしまった。優とジャンはスタッフにタオルを手渡され、テントの中から未だにねずみ色の雲を敷いている空を見上げた。
「平和だな」
「それはお前の頭ん中だけだ」
「うーっせー…」
優は着ていたタンクトップを脱ぎ、雑巾を絞る要領でじゅっ、と浴びた雨水を絞った。ジャンは自分のタオルを首にかけ、優が頭から掛けていたタオルを取り上げその艶のある黒い髪を掻き混ぜるようにして拭いていく。
「わ ジャン、おい、良いって、自分で拭く、ちょ、痛えなあ」
「うるせえなあ黙って拭かれてろ」
「…俺、犬みてえじゃんよ」
きれいに拭いてやるから、お前は俺の髪を結いなおせ。ジャンは笑いながらたっぷり水を含んで水滴が滴る髪を掻き混ぜる。優もくすぐったいと手を出すもののそれ以上の抵抗はしない。
ふいにテントの外にいた人間がまた中に戻ってくる。先ほどではないがまた雨が降り出したのだ。一瞬にして雨音にかき消される音。それでもとくに気にせず、テントの奥に行くのも面倒で際で足元の赤土が跳ねるのも気にせずにジャンは嬉しそうに目を細め優の頭を拭き続ける。
「すげえな、音」
「ああ?」
「だから!音がすげえなって!」
「ああー、音、な」
「…じじいかよ」
「うるせえな雨の音で聞き取りにくいんだよ」
「ちゃんと聞こえてんじゃねえかよ!」
するとにわかに周囲が少し明るくなる。雲が裂け、青い空が覗き太陽の光が一部に降り注ぐ。降り注ぐ雨粒が小さくなり、比例して音も小さくなってゆく。向こうで誰かが声をあげ、その光射すほうを指差した。その場に居合わせた一同思わず口をつぐんだ。
それはそれは見事な虹であった。
緑生い茂るその上に七色の儚い光のスペクトルが並んでできる円弧状のアーチ。小雨が降るのも構わずテントの外で見惚れる人間、カメラのシャッターを切る人間。ジャンと優とて例外でなく、思わずため息をついた。あのような見事な虹は生まれてこの方見たことがない。
「すげえ…」
「ああ」
ジャンはテントの外に出て空を見上げる優の横顔の瞳を見、微笑んだ。真っ黒な瞳の中にも虹がかかっている。それも両目に。とっさに肩に手を添え引き寄せた。優は少し驚いてジャンの顔を見たが、すぐにふんわりと笑って虹のかかる空に向き直った。ほんの一瞬だけ、その瞳に自分の顔が映る。しかしまた空にかかる虹を映してしまった。ジャン以外の皆は、虹に釘付けである。
「御神苗」
「ん?」
満足気に猫を撫でるときのような声でもってジャンを振り向くと、すぐ目の前に見慣れた青い瞳があり、それを認識するや否や口唇に温かいものが触れる。いきなりのことだったがほぼ反射に近い形で瞼を閉じた。角度が変わる。触れてきたのはジャンの口唇だった。あの日無意識に指で触れたときは今よりずっと乾いて皮が浮くくらいだったっけ。恐る恐る瞼を少しだけ上げると、同じく薄く開かれたジャンの瞳があり、こちらに気が付いたのか今より目を見開く。かあ、と体温が駆け上がるのが自分でも分かった。きっと耳まで真っ赤だ。
そっと優のうなじにジャンの右手が回り、左手は腰を引き寄せ、ぴったりと重なる。ん、とくぐもった声が漏れた。恥ずかしかった。それでもぎこちなく腕に触れ、そっと両腕をジャンの首に手を回した。腕に濡れそぼった長い金髪がへばりつくようにして触れた。それにも気が付かないくらい、全神経は口唇の感触を辿っていた。息継ぎが出来ずに胸が次第に苦しくなる。む、と我慢ならずに声を漏らすとしっかりと捕らえられていた口唇がほんの一瞬だけ開放される。はあ、と荒くまるで溺れたときのように空気を肺に入れる。講義を口にしようとするとすぐさまにまたふさがれる。
切なげに歪めた眉とぎゅっと閉じられた濃い睫毛を目の前にし、ジャンは胸が満たされてゆくのを感じた。両腕に力を込めた。それに答えるように首に回った腕でさらに優自身へと引き寄せられる。ジャンは自分もTシャツを脱いでいれば良かったと思った。皮膚の一枚分でももどかしかった。
そっと怯える幼子をあやすような気持ちで硬く閉じられた上と下の唇の境目を舌で優しく舐めてやる。するとぴくりと反応しこちらの意図を感じ取ったのかそっと力を弱め紅く色が差し柔らかく潤った口唇を解いてゆく。もう限界だ、とでも言うように首に回った腕に力が篭るのを合図に新に己の口唇をそっと重ね、傷つけないよう舌を割り込ませる。するとおずおずと優の舌に触れた。うなじを支えていた右手を移動し、はだかの背中をゆっくり撫でる。
とろりと瞼が重くなった。全身が甘くしびれた。それだけで、満たされた。心底愛しかった。
優はするりと首から腕を放すと、急いでジャンから身体を離す。
「…愛してる」
「…この非常識、ケダモノ、バカタレ…」
「随分な物言いだな」
「つうか…暑っちい…」
耳まで真っ赤になって、そんな中たっぷりと潤んだ瞳には目を細めるジャンが映っている。ぱらぱらと降り注ぐ雨音などもう気にならない。すると向こうがざわめいた。見上げると虹が途切れていく。
「あー!お前のせいでちょっと見逃したじゃねえか!」
「あんまり凝視しすぎるとありがたみがねえだろ?」
「意味わかんねーよそれ…」
ジャンは楽しそうに笑った。優は未だに真っ赤になりながら虹を見上げている。
「あのさ、あそこの色」
「? どこの色?」
「ほらぁ、七色あるだろ?あれのさ、一番下の、紫のもっと上」
「七色だあ?バカかお前は。虹は六色だぜ?」
「はあ!?何言ってんだよ虹は昔っから七色だって言われてんだよ」
「違う、虹は六色だね」
「意味わかんねー…」
「で、その色がどうした」
「…なんでもねえよバーカ」
「なんだよ、言えよ」
「言わねーぜってえ言わねえ!!」
お前の目の青に似てる、だなんて、言ってやるもんか。ジャンはつん、とそっぽを向く優の頬をやんわりと折り曲げた指で撫でる。上目で振り向いたその顔に近づき、今一度口唇同士を重ねる。今度は重ねるだけの、いつかの限りなく優しい口づけと同じだった。
目を開き、笑いあう。望んだことだった。夢見たことだった。
これが本当の、二人にとっての初めてのキスだった。
●梨菜さま
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『ジャンおみ
初ki
ss
話』
報告有難う御座いました!遅くなって申し訳ないです;;と、いうことで初ちゅー話を書いてみました。
リクで頂かなければ多分ずっと書かなかったであろう「初〜」話。慣れない「お題」というものに苦戦しました…むつかしい!(笑
土地とか気候に詳しくないのでほとんど都合で書きました。ズボラですいません…スコールと言い切ってないので嘘はついてないよ!(最低
色々聴いて書いてたんですが、中でも電グルの「虹」がお気に入りでした。
イメージとは違うことと存じますが少しでも楽しんでいただければ嬉しいです!気をつけてはいたのですが誤字脱字はご愛嬌です;
・2007年3月18日 スミス 「胸に優しさを、瞳に虹を、口唇には愛を」
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