酷く疲れていたのだ。
なぜ成田に降り立ったかと言えばそれは何てことない、任務完了地からフランスの自宅のアパルトマンを目指すよりも、日本を目指した方が空に居る時間が遥に短く済んだから。後は適当にホテルを用意させるか、別に恋人の部屋に邪魔をしてもいい。
しかしホテルを取るのが最有力であった。記憶の中のスケジュールが正しければ、その恋人でさえもがどこか別の土地に駆り立てられていたはずだから。どうせ部屋にいるとしても眠っているだろうし、それを邪魔するのも悪いと思った。
いつもなら相手がどう思おうと押し掛けるところだが、それまでも気遣い遠慮するほど弱っていたのだ。
眠いな、とまたいくつかこまめに瞬きをし、くあ、とひとつ欠伸を吐く。
空港のロビーを抜け、温かな空気の中、免税店等の並ぶ前には無数のクリスマスの装飾、トナカイの人形、雪の結晶のモチーフ、白に青のリボンのリース、そして大きなクリスマス・ツリー。それらの放つ赤や青や紫や金が目に直接堪えた。
ジャンはそれらの浮ついた空気そのものから逃げるようにしてその場を、やや急ぎ足で後にした。その足取り自体は傍から見れば特に力弱いこともなかったが、自身の感覚的にはほとんど引きずっているのと変わりなかった。
マライヤ・キャリーが延々とリピートされている。早く、シーツに沈んでしまいたかった。
* * *
ロビーを通り抜けた。
受付嬢への挨拶もままならない。軽く右手を上げて応答する。機嫌が悪いのかしら、と囁くように聞こえたがもう、そういうことで良いやと思っていた。
『ホテルの都合がつくまでお待ちください』と言われたので、その足は自然と恋人の部屋へと向う。エレベーターのボタンを潰すようにして押し、間もなく開いたドアの向うへのろのろと乗り込む。
本当はたっぷりの羽根布団で眠りたいのだけれどもう良い、ソファを拝借しよう。
ジャンはジャケットのポケットに手を突っ込むと、指先で煙草とジッポライターを押し退けてキーケースを探した。しかし探した先の右ポケットには姿を見受けられなかった。
左の方に手を突っ込むと、指先に探すそれが触れた。引っ張り出そうとすると、それは手の中に納まることなく擦り抜け、ちゃりん、と高い音をたてて床に落ちた。
それを拾い上げると同時に、エレベーターのドアが静かに開いた。
* * *
キーケースから合鍵を取出し、鍵穴に埋め込んで手首を捻る。
かちんと軽い音を立ててロックが解除され、ドアが開く。ジャンはブーツを互いに踏み付けるようにして脱ぎ散らかしたまま、黙り込んでリビングまで向かった。
静まり返ったリビングの真ん中のテーブルの上に、30センチにも満たない小さいチープなクリスマス・ツリーが置かれている。新しいものなのだろう、ビニールがかかったままだ。てっぺんの星のモチーフがビニールに潰されて俯いている。そしてその隣には一、二口分の量の残ったペットボトルの水。
以前訪れたときとの違いはそこくらいで、室内は穏やかな静寂、奥の寝室からのかすかな寝息だけ。
ジャンはペットボトルとツリーをテーブルの端の方に追いやり、その上に出来たスペースに、ソファの中央で無造作に放り出されていた部屋の主のコートをばさりと置いた。そしてソファに深く腰掛け、自身もジャケットを脱ぎ、足元に置いた。
ぼんやりと時計を見上げると午後4時半過ぎに針を進めたところであった。立ち上がり、キッチンの冷蔵庫に向かい、蓋を開けて中を見渡す。ほとんど何もない。
辛うじて牛乳パックを掴み出し、持ってみると軽いことから直接口をつけて飲み干した。生温い体のなかに冷たく降りていくのが分かった。
曇り空の合間から、傾き始めてから暫くになる太陽の光が射している。
ジャンはこの部屋に足を踏み入れてからいくつか目が冴えたような気がした。空になったパックをごみ箱に放り込み、兎に角部屋の主にお目にかかろうと物音を立てぬように寝室まで歩く。
そっとドアを開け、寝室を覗き込み、ジャンはその不思議な光景に思わず口を噤み、そして小さく目を見開き、ほう、とため息をついた。
ベッドには寝息、その周りに、無数の白い羽が散乱しているのだ。くすんだオレンジ色がブラインドの隙間から差し込み、隅から隅まで部屋中を照らすその中で、ドアの開閉のかすかな風圧でもって、ふわりと床の上を舞っている。ベッドの上も、同様に。
部屋の主はすやすやと寝息をたててうんともすんとも言わない。その掛け布団の上にもいくつか羽が落ちている。枕の、傍にも。
室内に入ろうとすると眠りの住人が小さく唸った。起こしてしまっただろうか。そのままドアの外からつっ立ったまま覗いている。
「御神苗…?」
遠慮がちにローヴォリュームに声をかけると、返事とも唸り声ともつかない声を上げ、優はその場にゆっくりと体を起こした。その目覚めた頭から、ひとひら羽が落ち、ベッドのシーツからいくつか床にこぼれ落ちる。
「…悪ぃな、起こしたみてえだ」
「…いや…、べつに」
勝手に起きただけだから、と、自身の羽毛だらけの周囲の様子を見渡してため息を吐きながら答える。ジャンはゆっくりと床に散らばる羽に注意しながらベッドに歩み寄った。
「なんだ、こりゃ」
「…枕の羽だよ…」
「どうしたら枕からこんなに羽が出たんだよ」
「…枕が破れたんだよ」
何があったのか知れないが、どうやら何らかの形で枕が破れ、中に詰まっていた羽が外に飛び出したらしい。よく見るとベッドの下にブランケットと紛れて、穴が開いて半分以上中身が溢れ出てぺしゃんこになっている白い布の袋が落ちていた。
寝呆け眼、まだ眠いのであろう潤んだ瞳、そのなかでふわふわと舞う羽がとろけて映った。
「…ええと、いつ来た?」
「…今来たばっかりだ」
「…あ、そ…、寝る?」
「…いいや、いい」
「眠くねえのか?」
「…眠い、かもしれねえが目が覚めちまった」
「何だよ、それ」
優はやはり少しくたびれている様子で笑った。ジャンもつられて目を細めた。一歩踏み出すとまた羽が舞った。何か違う生きもんが寝てるのかと思ったぜ、と、ジャンは不思議そうに続ける。
「何が寝てると思ったんだよ」
「天使」
「ははは、バーカ」
可笑しそうに笑って、やっぱお前も眠いんじゃねえか、と言う。ジャンは確かに、と少し肩をすくめて見せた。優は前髪を掻き上げて、ベッド貸してやるよ、とシーツの上の羽毛を指で摘み取りながら言った。
「いや、いい」
「寝ねえの?」
「…御神苗、」
クリスマスだからさ、と。ジャンは少し首を傾げて言う。
優は小さく、まだ眠そうに微笑んでのろのろとベッドから抜け出し、ジャンの隣を擦り抜け、キッチンへ向かった。そして冷蔵庫の前まで行き蓋を開け、空っぽなんだよ、と言う。
「買いに行けば良い」
「ケーキと、上等なワインと、それから…シャポンはねえだろうな、でも適当な肉と」
「買ってやるから、買い物、行こうぜ」
「……珍しいよな、お前がそんなこと言うなんて」
「俺も寝るつもりだったんだけどよ、」
なんか勿体無いような気がしてきてさ、お前見たら、と。
ジャンは冷蔵庫の前でしゃがんでいる優の頭を後ろからぽんぽんと撫でた。優はいくつか目を瞬いて、その前にベッドの周り片付けるからと立ち上がる。
「いいじゃねえか。今日はあのままにしとけ」
「…マジ?」
「マジ。中々似合ってたぜ」
「何が?」
「だから、羽毛だよ」
「バーカ」
「メリークリスマス、御神苗」
「…メリークリスマス」
嘘じゃねえ、かわいかった、と。
ジャンは可笑しそうに笑って、そして着替えるために寝室へと向った。12月も終わりの夕日は室内を優しくも眩しく満たしていた。テーブルの上のツリーからビニールを引き剥がして真ん中に置きなおした。しかし首が傾いたままだった。
そうしてしばらくすると寝室からふたり分の文句と笑い声が聞こえた。破れた枕の中身はからっぽになって、室内では余すところ無く白い羽毛が舞っていた。
雪は降らなかったし、ふたりともすっかり草臥れてはいたが、それは白い、聖夜の寝室だった。
●2007年12月17日
考えても見たら、だいぶ長く書いてる気が勝手にしているだけで、クリスマスがどーのこーのは、初めて書いたのでありました…。
結局ふたりで羽まみれになって、ちょっとどこかくたびれたまま、買い物に行って、食べたいものを買うといい。
特別なことをする必要なんか、ひとつもない、って、ほんと、究極ですね!
シャポンはフランスのクリスマスのご馳走だそうです。七面鳥はぱさぱさしてて美味しくないんですってよー。
でもシャポンは一般家庭には縁の無いとてもお高いものなのだそうな…まあ、結局は鳥なんですけどね。
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