久しく戦線の伸びる地へ向かうジープの中。そこには常に緊張が張り詰めている。
憂鬱など持ち込む隙間を見せればそれは敵に背を見せるとの同じことだった。ここに入ってしまえばどの国であろうと関係はない。すべて敵とみなされる。
 その砂と風に荒れた地には紛争と飢餓で満ちている。沢山の少年が兵士として動いている。食べるものも生活物資も何もかもが足りない。一日に何人もの子供が死に大人が死に、営みが途絶えていく。
 それでも絶えないのは発展途上国の事情と言うやつで、人口増加率がそれを補うのだ。


 「御神苗」
 「…何だよ」
 「顔色が悪い」
 「…別に。…んなことねえよ」
 「……」


 今更引き返せもしないがな、と独り言のようにジャンは言った。手元には愛銃、それは優とて同じだった。もうすぐ戦線地に入ります、という運転手の声に緊張が高まる。優は眉間のしわを深くした。
 ここに来るまでに何かの動物の死骸を5体、そして明らかにそれらとは別の死骸を2体見かけた。真っ黒く蝿に集られところどころ肉が剥げ落ち骨が見え、更に大きな肉食の鳥類についばまれる姿は目も当てられない。しかし、死体やら死骸やらはジャンも優も職業柄により今ここで新に騒ぎ立てるようなものではなかった。要はその状況である。
 戦闘をした様子はない。つまりそれは行き倒れというやつで、水、食料、物資、それらを捜し求め稀に住んでいる土地を離れるのですとガイドが難しい顔をして言った。しかもそれは大抵母親と子なのだという。


 「子と言っても赤ん坊です。極度の栄養失調の。母親と行き倒れてしまっては、ハゲタカにすらかなう力がありません」


 こと辛そうにガイドが告げた。ジャンは険しい表情をして聴いていた。御神苗はごくりと唾を飲み込み下を向いていた。ジャンがその両肩に手を沿え、ぐっと力を込めた。優は体をびくりと跳ね、弾かれたように顔を上げた。ジャンはかすかに目を細め、気を抜くなと低い声で言った。


 「…もうここ10年です。紛争が絶えません。問題となっているのは少年兵で…」
 「少し疲れた。その話は後にしてくれないか」
 「あ、ああ、すみません、」
 「…ジャン、サンキュ。でも構わない、続けて下さい」


 優は確かな声で言った。
 ガイドはジープのミラーを通しジャンの顔色を伺ったが、ジャンがこっくりとひとつ頷いたので真っ直ぐ正面に向き直り続けた。
 政府側も新政府側もどちらも戦力が足りないために、言うとおりに従うしか知らない純粋な子供をほとんど誘拐するような状態で連れてきて、兵士に仕立て上げる。無理矢理拉致をすることよりも、巧みに誘い出し連れて行くのだという。


 「標的にされるのは大抵C地区の…C地区はまだ少し裕福ではあります」
 「そこで例えばおやつをあげるよ、とかお金をあげるよとか。お母さんが向こうで待っているから連れて行ってあげよう、だとか」
 「そういうことを言って誘うんです。そして誘拐し子供たちを兵士にする。大人が怖いから、子供たちは逆らうことが出来ません」


 優はぎゅっと唇を噛み締めた。ジャンは窓辺に肘を着き、遠く窓の向こうを見ていた。その視線の先には、また何かの塊が転がっていた。御神苗が気づかないのなら別に構わないと、それについて特に何か言うようなことはしなかった。



* * *




 『そのまま二人で飛んで、ゆっくりするといいわ』


 静かで綺麗なところだから、きっと優も落ち着いて過ごせる筈よと携帯電話の向こうのティアは続けた。ジャンは頷きつつああ、と低い声で返事をした。


 『優は相当堪えたんじゃないかしら』
 「自分で行くといったんだ、まあ…堪えてるのはその通りだけどな」

 無理もないわ、あそこは特別酷い場所だものと深いため息をつく。だけどもうああいう戦線近くの危ない場所に重要な遺跡がらみのものはないからと少し声のトーンを明るくして付け足した。

 『兎に角頼んだわね。話は通してあるから、ゆっくり休んでらっしゃい』
 「ああ」


 通話ボタンを押して会話を終え、専用機でヨーロッパへ飛ぶ。優はどこへ行くかも聞かずに黙って難しい顔をしていた。ジャンは優の分の荷物も持った。自分で持つという優の意見を押し切って、そのまま専用機に乗り込んだ。



* * *




「すげえなあ」


 たどり着いた先に思わず感嘆の意を口に出した優は、空港に居たときよりか幾分元気を取り戻したようだった。それはジャンも同じで、迎えに出してもらった白い旧式の車のトランクから向かった先の屋敷の主と荷物を出し終えると、大きくひとつ伸びをした。

 そこは田舎、壁は一面白く大きな屋敷で、足元、鉄の細工の門から開け放された大きなこちらもやはり白いドアまで真っ直ぐに土肌の細い道が伸びており、その両サイドにはよく手入れの行き届いた芝生と花壇。右手側には白く洗濯物がはためいている。
 思わずため息をついて見惚れているとドアが開き、大きなセントバーナード犬とその屋敷の夫人が現れる。夫人は右手に洗濯物のカゴを抱え、シャツにジーンズ。顔一杯に笑みを浮かべ、カゴを足元に下ろした。
 屋敷の中庭のテラスに通され紅茶をご馳走になる。優とジャンはティアの紹介でとある屋敷に一週間ほど滞在することになった。そこの主人とティアが長く友人なのだという。主人は元軍人だったそうだ。


 「なんでもあそこに行ったそうだね。酷いところだったろう」
 「ええ」
 「ここはいいだろう。とても静かで、豊かだ」
 「それでもまだあんな土地があるものなのさ。それを忘れないでいれば、十分だよ」


 主人も夫人の人柄のこともあって、二人はすぐその土地になじんだ。優は、また少し元気になった。



* * *




 昼過ぎに夫人がホースで中庭の花壇に水をまいた。地面をすっかり覆っている芝生にも水がかかって、雫がきらきらとして大層涼しげであった。ジャンはテラスで食後のコーヒーをすすりながら、その芝生の上で昼寝をしたらそれはどんなに気持ちが良いだろうかと思っていた。端の立派なけやきの下で木漏れ日に目を細めながら、雫でひんやりと湿る背中を思い、おもわずため息が出た。


 「おとなしいなあ、この犬」


 そんなジャンと優はよく日の当たるリビングの床に直接座って、セントバーナードの背中や尻尾や腹にブラシをかけてやっていた。確かにこの環境のもたらすものは確実で、優は少しずついつもの明るい表情へ戻っていった。それでも目を離すとたまに難しい顔をしているから、やはり忘れてしまったわけではないようだった。

(俺がしてやれることにも限界があるしな。それはもう自分でなんとかするしかねえだろうよ…)

ジャンはそんな優を想っては頭を撫でてやったりキスをしてやったりした。夜はたっぷりの布団とセミダブルのベッドで一緒に眠った。幼い子供を寝かせるときのように背中をゆっくりさすってやったりもした。優が眠りに落ちるのを確認するまでジャンは決して眠らなかった。優しくしてやるのは相手のためだけではなく自分のためでもあった。あの絵に堪えたのは優だけではないのだから。


 「ほい、終わり」


 毛をとかし終わると、犬は言葉を理解したのかただの気まぐれなのかさっさとどこかへ行ってしまった。優はちょっとがっかりしたようだったが、すぐにひとつ大きなあくびをした。


 「御神苗、昼寝しねえか」


 優はあくびの不可抗力で目を潤ませ、少しだけ笑ってこくりと頷いた。


 ジャンが優しく優の手を引いて向かった先は昼過ぎ昼寝にぴったりだと目をつけた、あのけやきの木の下だった。手で芝に触れるとまだ少し湿っているが、寝転がって背中が湿るくらいが涼しくて心地がいいだろうとジャンが笑うので、優もとくに気にせずに倒れこむようにして芝の上に寝転がった。
 午後から吹き始めた風がけやきの青々と茂った葉を揺らした。それに伴って木漏れ日がちらちらと動いた。


「俺…年取ったらこんなとこで暮らしてーなあ…」
「そうか? じゃあいい場所見つけとけ。でかい家建てるぞ」


 こんな屋敷みてえな、とジャンは時折差し込む光に目を細めたりしながら言った。そこで一緒に暮らせばいいとも言った。優は曖昧な返事をしながら目をつぶった。庭の端では花壇の上を舞う蝶々を犬がじっと見ている。
 ごろりと寝返りを打った。頬や首に直接触れる芝生がくすぐったかった。
 ふんわり、さっぱりと青い匂いが漂った。木漏れ日がきらきらと眩しかった。ざざあと風が芝生の上を這った。まるで小さな美術館にある上等な絵のようだ。そして自分とジャンはそこに寝そべっている。
 他愛のない話をして笑っている。たまに手を握り合ったり髪を触り合ったりしている。何事も無かったかのように。
 さわさわと枝や葉が鳴った。背中がじんわりと湿って心地よかった。遠くの林がざわざわとなっているのが聞こえた。屋敷のなかのダイニングキッチンからはオーブンの音が聞こえた。夫人が何か甘いものを焼いているのだろう。もうすぐ紅茶の時間かもしれないな。ああ、昨日いいレモンが買えたからレモネードにしようって奥さんが言っているのを聞いたっけ。昨日の晩のローストビーフは美味かったよな。うん、今日の晩はなんだろう…。

 世界のすべてが平和だった。飢餓も紛争も二人の間には存在しなかった。二人は幸せだった。安らかだった。もしこのまま死ねるならそれは本望だと互いに思っていた。そしてやはり相手はそこに居なければと思っていた。
やわらかい光と匂いと芝生に包まれて、確かな手指に触れ愛しい声を聴き優は今にも泣きだしてしまいそうだった。愛しい相手の存在を確かに感じることで狂いそうになる、崩れそうになる精神を安定させてやる。しっかりと指を絡め合い手を握る。
 くすくす笑って寝返りを打ち相手の寝そべっている方向を向く。ぽろりと涙が零れ落ち、青い芝生に吸い込まれるようにして消えていった。ジャンは少し困った顔で微笑んでいた。ゆっくりと握っていないほうの手を差出し優の目頭をその指で拭った。
 頭の上で枝たちがざわざわと鳴った。ジャンは体を起こす事無く優のすぐ側までいくとその頭を胸に抱き込んだ。そうしてゆっくりと口唇を重ねた。舌を入れたりするようなことはしなかった。押しつけるようにして口唇同士を合わせた。離れる瞬間ついばむようにして小さく音を立てた。
 真っ青に晴れた空の中で真っ白な雲がゆっくりとまどろむように流れてゆく。


「御神苗、幸せか」
「幸せだよ」

 俺も、幸せだ。
 ジャンがゆっくりと優の頭を撫でた。平和だった。幸せそのものだった。その一帯を除く世界は残酷だった。優が大好きな胸の中でふたつめの涙をこぼすとき、遠い残酷な地でまたひとつのいのちが消えた。
 優は握った手を離せなかった。それはジャンも同じだった。自分以外の生きものをここまで大切に出来るものかと不思議だった。しかしそれすら愛しかった。離すまいと思った。
 世界は愛に満ちている。残酷な世界は、ここにはなかった。





















●2007年03月03日 
幸せに暮らせば良い。お前が幸せなら、それで。
底なしに優しいジャンを書いてみたかった…ジャンにはかなりの夢みてるなあ…(笑

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