「お家では安静になさいね」


 校医はそういって早退願いを差し出した。ゆっくりと起き上がりよく糊の利いた白いシーツのベッドから出、ボールペンを握る。氏名記入欄の下に「漢字で書くように」とされているのを確かめ、「笹原 香穂」とできるだけ丁寧に書いた。
 姉がカバンを持ってきてくれたらしく、それを校医の手から受け取り少し笑おうとした矢先のどの奥から込み上げた咳で叶わない。


 「本当に大丈夫?お家に電話しなくても」
 「大丈夫です。家、誰もいないので」


 頭痛こそあまりないが目の奥が重く、身体の節々は運動することを拒んでいる。笹原香穂はそんな言うことを聞いてくれない身体を引きずるようにして、心配そうな女校医の視線を背中に、振り返って今度こそほんの少し微笑んだ。


 (初ちゃんにうつさないようにしなくちゃ…)


 廊下を歩いて下駄箱からローファーを取り出し、玄関を出る。
 その間も身体が動きに付いていくことを渋り、なんとももどかしくそして辛い。手を当てると案の定頬は火照っていてじんわりと奥から熱い。それなのに身体の芯はたよりなく寒い。まだ熱が上がっている最中なのだ。こんこんと咳をするとかすかに頭痛がし、見上げた外は朝からの曇り空だ。


 (降らなきゃいいけど)


 「あれっ、香穂じゃねえか!」


 驚いて視線を真正面に向けると、見慣れた顔がこちらをのぞきこむようにし、首を少しだけ傾けて黒い瞳を瞬いている。御神苗優だ。


 「あ、御神苗くん」
 「よお。なんだ、かっちゃんもとうとうサボりか?」

 世も末だねえ、と笑う。ちがうのよ、と少し笑う。その拍子にまたひとつ咳が飛び出す。やっかいだと思った。

 「早退か?熱あんの?」
 「…うん。風邪、かな」


 このまま病院に行くから、駅まで行かなくちゃならないの、と弱弱しく微笑む。優は灰色の空を仰いだ。雨が降りそうだ、と言う。それから香穂の手を見、傘を持っていることを確かめる。そうか、と独り言のように呟くと背を向け歩き出した。


 「ついて来いよ。後ろ乗っけてやる」


* * *
 


 「ちゃんとしろよ。つってもまあ…ハーフって実はあんま意味ねえんだけどな」


 まあ俺に限って事故るなんてこと有り得ねえから心配すんな、と快活に笑い自分もヘルメットを被る。断ったが歩いて駅まで行くのは辛いだろうと言いくるめられてしまった。


 「でも…私バイク乗ったことなくて」
 「運転するわけじゃねえから大丈夫だ。俺につかまっときゃそれで良いよ」


 自分の体の前にバックパックを置き、ほれ、と後ろのタンデムシートを親指で指差す。香穂はそっとそれにまたがった。どきん、と心臓が高鳴った。目の前には優の学生服を着込んだ背中がある。今だかつてこれほど近い距離で見たことがあっただろうか。


 (そういえば、前に見たときにこんなのついてたかしら…)

 「ねえ、御神苗くん。これ、前からついてたんだっけ」
 「ああ?タンデムシートのこと?いいや。最近」


 つけた、っていうか、つけられた。みたいなもんかな。優は香穂に背を向けたまま答え首をかしげた。それを聞き香穂はほぼ反射に近い形でとある人物を頭に描いた。エンジンが唸る。


 「ほれ。つかまれ」
 「えっ…あの、えっと」
 「ああーっと、腹に手ぇ回して、しがみつく!」
 「でっ、でも、あの…」
 「ほら、さっさとしろって!!」
 「はっ、はい!」


 恐る恐る優の胸の下辺りに腕を回す。もっとちゃんとつかまれ、といわれ背中に頬を押し付ける。均等に脈打つ優の鼓動が聞こえる。まるで身体に響いてくるようだ。顔がかあ、と熱くなる。これは熱のためではない。
 どきんどきんと心臓が鳴る。もしかしたら私のも御神苗くんに聞こえるのかもしれない。どうしよう。


 (今、振り向かれると恥ずかしいなあ)


 笹原香穂はおどおどしつつも、走り出したバイクのスピードに面食らい意識せずに目の前の身体にしがみついた。間接の節々や腰のあたりがじんわりとだるく、痛く、頭は思考をやめたようにただエンジン音と自分の鼓動と目の前の人の鼓動を耳の中で響かせていた。


 (初ちゃんに…叱られちゃうかなあ…)


* * *
 


 不思議なものだった。触れているところからじんわり熱い。悪寒がするのでまだ熱は上がり続けている。それでもなんだかとても心地よくて、揺れるからだや芯に響くエンジン、鼓動。とろりと瞼が重くなっていくのが分かる。


 「香穂ー、寝るなよー!」
 「えっ、あ、はい!」
 「やーっぱりか、ちゃんとつかまっとけよ!!」

 (…びっくりした。気をつけなきゃ)

 「まあ、しゃあねえけどな」
 「腹とか胸とか温かくてさ、瞼、重くなってくんのな」


 香穂は背中を通して響いてくる声を聞きながらまたも先ほどと同じ人物を頭に思い出していた。いつだったか、校門の前にバイクで立っていて、御神苗君を迎えに来た、二人顔をあわせてすぐに英語で喧嘩しだしたんだった。長い金髪の、背の高い綺麗な人。瞳は緑だったっけ。ううん、確か青色だった。
 最初は初ちゃんと二人で女の人かなって言ってたんだけど、体つきとか服装とかみて「あれは男だ」って初ちゃんが言ったんだっけ。


 「あの!」
 「んー?」
 「これつけたのって、ずっと前に御神苗君を迎えに来た金髪の人?」

 (あたり、かな)

 「あ、や、まあ。そうなんだけどさ…」
 「たまに来るんだ。仕事の同僚で…」
 「仲がいいのね」
 「うーん…そう、でもねえような…わかんねえけど」
 「それより体、大丈夫か?」
 「うん、だいじょぶ」



 (なんで何にも言わないで渡しちゃったのよお!!)

 (あいつ、他の義理チョコと混ざって訳わかんなくなっちゃってるよ絶対に!!)

 (うん…でも、いいの…)

 (ああーもう、香穂はあ!そんなんじゃ駄目だってばあ!)

 (んもう、大事なとこ抜けてるんだから!!)

 (うふふ、でもねえ、いいの)

 (良い!今からあたしが御神苗に言ってきてやる!!)

 (やっ、いいのよ初ちゃん!!)


 分からないけれど、御神苗くんにはもう居るのよ。そういうひとが。
 なんて言えなかったけれど。そんな気がしていた。誰かは分からなかったけれどきっと知らない人だと思った。おんなじクラスの人じゃない。もっと遠く、私が知らない人。だって時々とても寂しそうな顔をするんだもの。

(あれは心配事をしてる顔じゃない)

(人に会いたいときの顔)

(わたしも、初ちゃんも、駄目ね)

(御神苗くんのばか)


 吹きつける風で髪が揺れた。思い出したように意識すると関節が痛み、目の前がぼうっとする。眠気が差している。人の背中は安心できる。


 「御神苗君はどうして早退なの」
 「や、サボり、かな」
 「だめね」
 「ははは、まあなー」
 「その、人がさ…」

 「…が、来るんだ」

 「えっ、誰?」
 「いや、何も」
 「それよりしっかりつかまっとけ」
 「うん…」


 上手く聞き取れなかった。誰が来ると言ったのだろうか。女の人だったらどうしよう、いやだなあ。それも仕方がないけれど、ね。
 まもなくして駅に到着すると、優は一人で大丈夫かと心配そうに言った。香穂はだいじょうぶ、と微笑んで階段を上った。だるい膝を上げながら、頭の中に、さっきまでの自分のようにエンジンに揺られながらどこかの誰かの背中でまどろむ優を描いた。

 (なんだかぜんぜん似合わないな)

 改札を通り、電車を待つ間に手鏡で見ると頬は案の定真っ赤であった。

 (熱があるもの、ねえ)

 到着した電車に乗る。一番端の座席に辛うじて座る。間接がじんわりと痛み、頭痛が強くなりだした。笹原香穂はさっき優に手渡されたかわいらしい包みの菓子をひとつそっと解き、口に含んだ。
 フランス製の、ひどく甘いキャンディーだった。















●2007年03月29日 
初穂ちゃんと香穂ちゃんは、うしとらの麻子と真由子みたいだと思う。かわいいよねえ。
そして優×香穂とみせかけてやっぱりじゃんおみ(笑

2007/07/18 加筆修正

<<<