くらいはなし






●グッドラック、スィーユーアゲイン。


 「もう何もいらない」と言った。向かいに座った御神苗優は首をかしげてくすぐったそうに笑った。
 バカだな、何言ってんだよと目を細めて言う。それもとても小さな声で。聞こえては困るからだ。だって男同士だもの。御神苗は体裁に気を使う。人が居るところで何かそんなことを言えばたちまち機嫌だって悪くなる。今日は、運がいい。
 ほんとだよ、俺はもう何も要らない。後は死ぬだけだと言うと、少し眼を見開いて、俺の前でもう二度と死ぬとか言うなとカフェオレを口に運んだ。少し不機嫌になった。しかしそれに対しては悪い気はしなかった。彼はとても恐れている。転寝をしていたら俺が死んだ夢を見たと震える声で真夜中に電話をかけてきたことだってある。
 それでもなあ、俺はそれだけじゃ足りないんだよ御神苗。
 よく、二人で一つの生き物になれれば良いのにと思う。御神苗の目線で、御神苗のとらえ方で、御神苗の思考で生きてみたい。そんな無理なことを遠く思っては電話をかけたりした。
 だから辛い思いをさせる。痛い思いもさせる。傷つけてしまう。いつも泣くのはそうだからだろうか?確かめたって、大丈夫、としか言わないのだもの。分からないよ、いつも。繋がっても繋がっても足りないのだもの。いっそう壊してしまえればいいと思うことだってある。俺は残酷なやつか。いいや違うな、それは逆だ。壊れて、何も分からなくなってしまえればいいと思うんだ。

 ひとりの空港は孤独だと思う。
 御神苗は今まだベッドの上で熟睡しているだろうか。見送りなんかいらなかった。それでもなんだかとても寂しかった。きっとふたり分の体温がひとつずつに離脱したからだ。
 もし俺が死んだらきっと墓参りに来て欲しい。お前の誕生日がいい。お前の誕生日の近く、後でも先でも良い。お前におめでとうを言いたい。叶うのなら、コーヒーか酒を持ってきて欲しい。
 あの小高い岡の上で、待っているよ。

 そうしていつも離陸して暫くして気圧で耳がおかしくなるころにメールが届くのだ。いってらっしゃい、と。
 それだけで甘いため息が出るのだ。いってきます、と。










●ヴァンパイア


「おい御神苗、首筋どーしたよ?」


 級友の一人が首筋の絆創膏を指差して言った。

「んあ、ああこれなあ…」

 優は面倒くさそうに頭を掻きながら一瞬視線をさまよわせて、それから何気なく続ける。

「服着るときに爪で引っかいてさ、流血」
「ははは、ドージ。爪はちゃんと切らねえと先生に怒られるんだぜ」


 なんだそれ、とひとしきり笑った後に絆創膏に指を添えた。それから間も無くしてチャイムが鳴り、皆それぞれなんとなく席に着いた。優の指先はまだ絆創膏の表面を撫でている。

 教師が右手に教科書を持ち、英語の訳をしながら席のすぐ隣を後ろへと歩いてく。優はほとんど無意識に絆創膏を覆い隠すように手のひらで触れた。
すべすべとした感触。ぷつぷつと穴が空いて、中心が四角く浮き出ている。爪で摘むと浅くぐにゃりと爪の間に入り込む。とてももどかしい。


『それじゃ、気をつけてな』
『ああ。お前も学校頑張れよ』
『なんだよ気持ちワリーな』
『…御神苗』
『ん?』
『あ、ジャン…?』
『……』
『ん…』
『………!?痛ってぇ!!!』
『!? なっ…いッ…ジャ、ン!?』
『ひっ…あ、いッ…痛ってえ、おい、おいってば!!』
『……ひ、いッ…』
『……』
『…ってぇな何すんだ馬鹿野郎!!』
『こいつが消えるまでにまた会えれば良いな』
『は、ジャン……?』
『当面の予定がつかねえ。今度いつ来れるかわかんねえんだよ』
『なっ…そんなこと一言も』
『うん、だから。その傷が消えるまでには一度会えるように』


 願掛け、そう言ってそこに口付け今朝任務に発った男が残していった歯型。
 彼が去った後鏡の前で見るとやはりそこは流血していた。指で触れると瞬間の熱と唇の感触を思い出し、じんと傷口が痛んだ。水で洗うこともしないでそのまま絆創膏を貼った。流れた血は指で掻き消した。


(後で張り替えよう)


 早く治れば良い。それでも会いに来なかったら、今度はこちらから噛み付いてやればいい。俺はこんなに痛かったのだ、と。教えてやればいい。
 それから三週間と2日、首筋の絆創膏は剥がれなかった。










スイートマザーオーブン


 気が付くと身に着けていた衣服は破れ腹の辺りに大きな血溜まりを吸い取った後がある。
周囲には遺跡の壁やら柱やらの残骸がばらばらになってまるで死体のように転がっていた。無論、そこにはいくつかの人型の死体も落ちている。それはまるで浮世離れして眼に映り、人形のようだとも思った。両手は真っ赤に染まり、まだぽたぽたと粘ついた液体が滴っている。指の間には布やらぬめぬめとした破片が挟まっている。赤黒い、硝煙と血の匂いが立ち込めていた。深く息を吸い込むと、向こうから他のエージェントの声がする。
 なんだまたやったのか、と、諦めに似た絶望を感じた。

 任務を終えた後はしこたま食べた。獣人化すれば腹が減る。しかし食べても食べても腹の隙間は埋まらなかった。今にも腹の虫が鳴り出しそうな状態が続いた。

 日本行きの専用機の中で転寝をする頃には腹も随分と落ち着いた。
 コーヒーを飲みながら窓の外を遠く見た。三分の一ほどを飲んだ頃カーテンを閉め、まだ遠く日本に居る愛しい黒い髪を思って、またうとうととした。

 機体が揺れ、浅い眠りが弾けた。
 まだ少しコーヒーが入っていたはずのカップは、ドリンクホルダーにはもうなかった。搭乗しているブロンドのキャビンアテンダントがワゴンを押しながら入ってきて、新しいコーヒーはいかがと言った。是非、と言うと一緒に甘いものもどうかと言う。そういえば、また腹が減った。
貰うよと答えると、じゃあどれが良いかしらとリストを手渡される。どれが良いだろうか。できれば腹に溜まるものが欲しい。久しく獣人化してからと言うものかつてないほどの空腹感に見舞われる。
 ベイクドチーズケーキ、チョコレートブラウニー、マカロン、オレンジリキュールのパウンドケーキ、ストロベリームース、アップルパイ、ババロア…どれも底なしに甘そうで、空いた腹には響く名ばかりだ。


「じゃあ、これにするよ」
「あら、シンプルね。でも美味しいわ」


 キャビンアテンダントはワゴンの二段目に手を入れ、バスケットを取り出した。そしてその瞬間ジャンはまるで無くしていた宝物を、クローゼットの奥から見つけ出したような感覚になっていた。
 昔、まだ母のマリアと弟のマークと暮らしていた頃。
 夕方に家に帰ると、ごくたまに甘い香りが部屋中に満ちていた。弟と一緒にそっとキッチンを覗くと、オーブンの隣に母が雑誌を読みながら足を組み座っている。自分達の姿を確認すると、おかえり、手をあらっておいでと微笑む。そしてテーブルにはふんわりと卵黄の色を思わせるマドレーヌが沢山置かれているのだ。それらは手をかざすとまだ暖かく、オーブンはまだ沢山のカップを抱えて稼動していた。
 自分と弟は競うようにして手を洗い、口いっぱいにふわふわと甘いそれを頬張った。

 口に入れると口腔内に甘い香りが満ちる。柔らかくて、唾液を吸って形が崩れた。奥歯でかみ締めると一段と、その咽返るような甘い味覚は幼い日と何ら変わらない。


(そういえばこれ、御神苗も好きだったな…)


 しかしあいつは甘いものはなんだって好きなんだと思いながら、残りの黄色い塊を口の中に放り込んだ。



* * *




 空港にはどんよりとした空気が漂っている。雨だ、雨が降っている。
 そういえばここ2、3日雨ばかり降っていると御神苗がメールで言っていたっけと思い出す。ジーンズの裾が少し湿った。
 空港でタクシーを拾う。アーカムビルまで。運転手は愛想のいい笑みを浮かべて発車させた。雨がフロントガラスを激しく打った。運転手はラジオのヴォリュームを少し上げ、よく降りますねえと言った。そうですね、と答えた。

 途中、渋滞に引っかかった。車はのろのろと先ほどより少し弱くなった雨に打たれながらも進んだ。
 至極じれったく我慢がならなくなった。ここで良いですと言うと、本当に良いんですかと少し驚いた顔で返された。ええ、と答えるとここからだとそのビルはまだ遠いですよと言う。そんなことは分かりきっている。
 それでも良いんですというと、ではお気をつけてくださいと言った。傘はお持ちですかと聞かれ、いいやと答えると良かったらどうぞと黒いこうもり傘を差し出される。今度弊社のタクシーを利用したときにでも返してくださいと快活に笑った。良い運転手だと思った。しかし、ありがとうと断り代金を支払いドアを閉めた。


 雨脚が強くなった。
 耳の中は車と、雑踏と、そして雨の音で満ちている。自分はそのなかをばしゃばしゃと歩いた。ひたすら歩いた。髪からは水滴が無数に滴っている。注がれる視線も、気に入りのコートも、皮のブーツも、冷たくなっていく指先も、何も気にせず夢中で歩いた。途中でコートを脱いで脇に抱えた。濡れたコートが肩に冷たかったのだ。いっそ直接雨にさらされるだけましだった。
 ぴたぴたと水滴が指の先から地面に滴る。その感触は血を思わせる。



* * *




 チャイムを鳴らした。足音がしてドアが開いた。待ち望んだ瞬間だった。
優は笑みをこぼすより先に驚いた顔でまだ水の滴る自分の足先から頭の先までを眺め、室内の奥へとタオルを取りに行った。持ってきたタオルを帰ってくるとほぼ同時に放り投げるようにして頭にかけると、その場でわしわしと頭を拭き始める。自分は後ろで結んでいた髪を解いた。すっかり湿った髪がタオルでかき混ぜられて、鬱陶しく頬や額にへばりついた。ぽたぽたと玄関口に小さな小さな水溜りをいくつも作った。


「お前傘ささなかったのかよ?」
「…持ってなかった」
「コンビニでもビニール傘売ってるぜ?」
「そうなのか?知らなかった」


 嘘。そんなこと知ってる。優はくすくすととても楽しそうに笑った。鼻をすするとツンと痛んだ。ここで何やら部屋の中から匂いがする。


「御神苗、何か甘い匂いがする」
「ん?ああ、あのな。ホットケーキを焼いてた」
「…ホットケーキ?」
「何か食おうと思ったんだけど何にも無くてさ。この前姉ちゃんが置いてった粉が残ってたから」
「ふうん…」
「上がれよ。そんでシャワー浴びて来い。コーヒー入れるから、さ……ジャン?」


 そっと左肩に顔を埋める。優の白いロングTシャツに湿った前髪が伏せられる。頭にかかったタオルが後ろにずれ落ちて、首のところで止まった。
 優はそっと濡れた後頭部に左手を添えて、幼い子供をあやすように優しく撫でた。そうして右手で背中も撫でた。ジャンはその体制のまま、足元にできた水溜りと、そこにまだ尚滴る水滴を見た。


(良かった…透明だ)


 優はタオルを頭にかけなおし少しだけ拭いて、くすくす笑ってぽんぽんと頭を叩いた。それから一言、ばかだなあ、と微笑みながら言った。


「腹減ったろ? ほら、シャワー浴びてこいよ」
「ああ…」


 口の中で甘くとろけるバターとはちみつの味を思った。
 嫌われるのは怖かった。腹はもう、空いてはいなかった。























●グッドラック、スィーユーアゲイン。:2007年2月10日 くらいはなし。

●ヴァンパイア:2007年2月5日

●スイートマザーオーブン:2007年2月12日【BGM:nothing compares 2 U /矢井田瞳】
最初はマドレーヌじゃなくてドーナツだった。でもフランスにゃドーナツはないって。

●ホットサイダー、起きない人。:2006年8月17日〜2007年2月12日
サイダーのところだけ書いてあったのを発見、御神苗とジャンにしてみました。
自然すぎて忘れてた。そうだ、俺のべッドにジャンが居るんだった。


暗い話と言うよりも、テンションの低い話(ジャンが 笑)。テーマは出て行くところ、帰ってくるところ。
どれもお好きなように解釈していただければ幸せです。



●2007/07/18 修正


<<<