うみべの恋
●ウィークエンド、気持ちは晴れ
頭が痛い、と額に手を当てて冴えない顔をしている。
口に出して痛みを訴えることはめったにないことなので心配になり、電子体温計を渡す。ぴぴ、と小さな音がし、本人が確かめる前にそれを手から取り上げ長方形の画面の数字に目を落とす。熱は、無い。
前の晩にあんなに夜更かしするからだとまるで母が子を叱るようなことをいうので、ジャンは浅く腰掛けたソファの上でずきずきと痛む頭を抱えたまま笑った。そしてそれを優は怪訝そうな顔で見下ろしている。
「薬飲むか?」
「や、いらねえ」
「そっか。も一回寝れば?」
「…や、それも良い。大丈夫だ」
「でも顔色悪りいぜ?ほんとに大丈夫か?」
「大丈夫、ノープロブレム」
「なら、良いけど」
止まない頭痛を抱えたまま昼食をとる。窓の外は頭の痛みとは裏腹にからりと晴れている。ジャンはとても損をした気分になった。こんな日には外に出るに限る。近所の公園でもいい。日の当たる芝生の上で昼寝をする。買い物でもいい。勿論どこかへ遊びにいくのもいい。めったに行けないような所がいい。例えば動物園。水族館。幼子が遠足で行くような場所がいい。ノーテンキで、きっと楽しいに違いない。
ぼんやりと窓の外を見ながら口を動かしていると、向かいに座った優がふいに立ち上がり、3分の2くらい水の入ったグラスと小さな箱を持って帰ってくる。
「やっぱ薬飲めよ。辛そう」
「別に。見た目ほどじゃねえんだよ」
「飲め」
「そんなことより御神苗、昼からどっか行かねえか」
「あのなあ、」
そんなでどこいったって楽しくねえだろうが、と眉間にしわを寄せてグラスを押し出すようにして手渡す。皿の上のチキンライスを残さず食べ終えると、すぐ横で揺れていたグラスの水と薬の箱を一瞬恨めしそうに見、仕方なく手に取った。ぱち、ぱち、と並ぶ錠剤を二つ取ると口にいれ、向かいの視線を感じながらも流し込んだ。
「また今度どっか行こうぜ、な」
「ああ」
(どっちにしても遊びにいけねえのなら、我慢する必要もねえか)
「寝ろよ。昼寝しろ」
「じゃあお前も一緒に」
「皿、洗ったらな」
素直にベッドに行ったのは音が聞きたかったからだ。キッチンから聞こえる食器同士が擦れる音、ごぼごぼと排水溝に落ちてゆく水の音、からん、と食器カゴへぴかぴかに洗い上げられた皿が置かれる音。それは幼い頃によく聞いた音。ただ隣に温度が足りない。
「御神苗―」
「んー?」
「俺は駄目なやつだ」
「知ってる」
「ひでえな」
「…おやすみ、ジャン」
あんまりの声色に思わず口をつぐむ。どうしてその声はここまで己を安心させるのか。すっかり二人分のにおいが染み込んだ掛け布団を肩まで被る。
「御神苗」
「なんだ、まだ寝てなかったのかよ」
「もうしばらくやっかいになるけど、良いか」
「いつも問答無用で居るくせに。今頃どうしたよ」
「や、なんとなく…」
「頭痛、やっぱひでえんじゃねえの?」
笑い声がしてすぐにキッチンの水音が止む。スリッパの音がして、寝室に優が入ってくる。そのままベッドを突っ切ってカーテンを閉める。そしてゆっくりとベッドに横たわるジャンのすぐ隣に滑り込む。
「俺も寝る」
「ああ…」
変な組み合わせと言えば変なのかもしれない。女付き合いもほとんど無くなった。自分の部屋に要る時間でさえ少なくなった。フランスに帰ること自体が減った。それでもここは彼の部屋だった。気がつくと知らないものが増えていたりするのが気に食わない。でもここはあくまでも彼の部屋なのだからそんなことは当たり前のことだ。
そして今ジャンは優の部屋で自己の部屋でおよそ見舞われることのない強度の頭痛を訴えて眠ろうとしている。ジャンはひとり心のうちで変な話だと思っていた。
「シてえなあ…」
「…お前…あのなあ、」
「治ったらなあ、是非してえなあ…」
「さっさと寝ろよアホ」
「…まあ…治ったら、許すけど」
頭の中はおしゃべりだった。目は冴えていた。しかし腕の中で繰り返し繰り返し響く単調な呼吸が眠気を誘った。眠れ、と催促した相手が自分よりも先に眠った。優はどんなときでも頭痛薬を飲まない。集中力が下がるのだそうだ。それに頭痛は比較的よくあることだと言った。
(こうやっていつも我慢してんのか)
すやすやと寝息が胸の中に満ちた。
そっと黒い髪に口付け、ジャンは瞼を閉じた。温かく穏やかな眠りだった。
●A song of a witch
「そんな歌やめてちょうだい」
後ろから声が聞こえて驚き振り返ると、見慣れた黒い髪が少しだけ疲れた顔で揺れた。女はふうと短くため息をついて、かつかつと高いヒールの音を廊下に響かせながらこちらに近寄り、手に持っていた資料をジャンに差し出した。ティア・フラットだった。
「なんで。悪い曲じゃねえだろ」
「悪いわよ」
口ずさんでいた曲が気に入らなかったらしい。ジャンは首をかしげた。
「あなたには似合わないわ」
「御神苗がCD貸してくれたんだよ」
「優が?カーペンターズを聴くの?」
「変だろ」
「変ね、それこそ似合わないわ」
そんなこと言えば叱られるわねと実におかしそうに笑うと、じゃあついでに優に渡してくれるかしらともうひとつ、右端をホッチキスで留めた資料を渡される。
「別にカーペンターズが嫌な訳じゃないのよ。でもその曲は嫌」
「なぜ?『Yesterday once more』だ。みんな知ってる名曲だぜ」
「あなたには分からないかもね」
あなたたちには、かしら。
ティアはそういってくるりと背を向けていってしまった。それでもなんとなくそれを口ずさみながら。
「悲しくなるじゃない?なんだか。だったら『Top of the world』の方が好きよ」
(過ぎ去った日々よ、もう一度、か。確かにね。
でもあんたはいつだって若いじゃねえか)
俺たちにはわからねえよ、と苦笑しジャンは反対の方向へと歩き出した。
●うみべの恋
どうせなら花の綺麗なところへ行きたいと文句を言いながらも、唇に濃厚なくちづけを残し、俺がたわむれに結ったみつあみもそのままにジャンは任務に立っていった。俺は久しぶりに学校も仕事も無い、休みだというのに。
彼が部屋を出て2日経ったとき、昼を食べた後に観たテレビでニュースの間に映った海はなんだかとても寂しかった。無数のウミネコがにゃあにゃあと鳴きながら海面すれすれを何度も何度もかすめてゆく。そのたびに魚は捕れるのだろうか?
だけれどそれ以上は何も無かった。海岸には誰一人居ない。空は薄っぺらくて頼りない。それでもそれがひどく美しく見えたのは、この季節のせいなのだろうか。
掃除機をかけていても洗濯機を回していてもどうもあのステレオのウミネコの鳴き声が耳から離れない。脱水をかけた衣類もそのままに、バイクの鍵を握った。
エンジンをかけたときに口に入れたきついミントの板ガムは右奥歯のところですかすかになっていた。それはもう邪魔でしかなかった。顎はすっかりだるかった。
港ではなく砂浜がよかった。ウミネコの声が離れなかったはずなのに、自分が選んだ場所はウミネコなんかいないところだった。生き物の気配はなかった。砂浜の堤防にそって続く歩道のアスファルトをついばむカラスくらいだった。ざあんと砂浜に波が何度も何度も打ち寄せる。靴を履いたままぎりぎりまで近寄ってみる。じわ、と液状化して履いてきたスニーカーのソールが少しだけ埋まる。潮風が肌に痛いくらいだ。もう一枚着て来ればよかった。
(いいや、いっそ本物を聞いたら寝ても残りそうな気がする)
夏以外の時期に出向く海なんか最悪だ、とジャンは言った。潮風は寒いし、水だって冷たいし、はっきり言ってそれでも行きたいという意味が分からない、とまで言った。そのとおりだ。得るものは何も無いし、楽しくともなんともない。逆に虚しくなるくらいだ。人のいない海は寂しい。知っていた。
それでも来たかったのは、繋がっているのかと。この目に広がる海は、お前の見ている海にも繋がっているのかと。これを泳いでわたってゆけば、お前のところにたどり着けるのかと。
ただ、行けるのかと。ただ、会えるのかと。それだけだった。
●ウィークエンド、気持ちは晴れ:2007年4月3日
しかも大抵が偏頭痛。寝れば治んだよ、頭痛なんざ。
●A song of a witch:2007年4月1日
ジャンとティア。ティアは気がついている。魔女さまに分からないことなんかないのよ。
●うみべの恋:2007年3月30日
タイトルは佐藤春夫の「海辺の恋」より。なんかすげー好きなのあの詩の雰囲気が。
お留守のジャンが恋しい御神苗の話。海はひとつに繋がっているよ。
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