本場のフレンチをご馳走してやると冗談めかした電話を受け取って、ジャンの部屋を尋ねて三日目の朝だ。
 昨日の朝それはそれは清々しい晴天だった。眩しい日の光がカーテンで遮って目蓋を通しても眩しくて、自分の右に寝ている男とほぼ同時に目が覚めたのだ。

 しかし今日は違う。
曇りだ。寝室内は青緑に白を混ぜたような、B級映画の照明のように淡く作られたみたいな色に照らされている。この部屋をけなすつもりは毛頭ないが、ここにぴったりの色だ。
そして隣で淡々と深い睡眠を貪る男は、さながら映画の主人公というところだろうか。


(どっちかっつーと、ヒロインかな…)


こちらに背を向けて、静かに死んだような寝息でもって横たわっている。
腕枕をしていたはずの腕はいつのまにか引っ込んでしまって、御神苗は枕のすぐ下の白いシーツの上に直接頭を乗せていた。


(ジャンの馬鹿野郎…)


 もそもそと小さく足でシーツを蹴って肩までかかっていた布団から少し這い出て、隣の男の頭の下から枕を抜き取りそれに自分の頭を乗せた。男の乱れた金髪がシーツの上に散らばったが、男はそれでも起きなかった。
まだまだ見慣れない天井を見つめた。ベッドの上は自分と相手の体温が交ざって熱いくらいだ。昨日も何度も見たのにそれでもまだ見慣れていないことを不思議に思った。
 行為の真っ最中だ。上から覆いかぶさられるように繋がりながら熱い息でもって首に思いっきり噛み付かれたっけ。


(……? ジャン…、いてえ…)

(…おいってば…ジャ、ン、痛えって!)


血が出たんじゃないかと思うくらいに噛まれた。よくある甘噛みとは違う。やり果てて眠りに落ちる前に、噛みちぎって喰われるかと思ったと告げると「美味そうだったからさ」と笑った。


(ほんとにいつか喰われるかもなあ…)


 たまに猟奇的なジャンの性格を思った。当の隣の男はまだ眠り続けている。その背中に向いて右手で触れた。その表皮はひんやりと冷たい。しかしその下はじんわりと手のひらに心地よい暖かさをしていた。散々引っ掻いたはずなのに、爪痕一つ残ってはいない。


(…御神苗?)

(御神苗、)


 その背中で思い出してしまう。駄目だ、止めよう。熱くなりそうだ。中心が覚醒してくる前に凪ぎ払った。背中に触れていた手を引っ込める。
じん、と指先が離れ難かった。


(なんか、すげえ名前呼ばれたような気がするな)


 二人しか居ないのに必ず名前を呼ぶ。
御神苗、今度いつ会える?コーヒー飲むか御神苗。なあ御神苗、リモコン取って。
自分と相手の二人きりなのにしつこいくらいに名前を呼ぶ。


(面倒臭がりのくせにになあ…)


 ベッドのサイドテーブルに置かれた目覚まし時計はもうじき9時を指すところだ。
これから予定があったわけではないが取り敢えず声をかける。男は相変わらず背を向けたまま単調に呼吸をし、動かない。


「…ジャン、ジャン」

耳元で囁くようにして言う。小さくピクリと反応した。

「…ジャン、もう9時になるぞ」

う、とかすかに唸って男は体をこちらに向けた。目は閉じたままである。

「…御神苗?」

「…うん?うん、俺」


 昨日一緒に寝たのだから俺以外が隣に寝ていたらおかしいのであるが、しかし男は不思議そうに、すこし掠れた声で言った。


「御神苗?」

「だからそうだってば。どうしたよ…」


 ジャンはやっと重そうに目蓋を上げて青い瞳で向き合うようにして隣に横たわる優の姿をとらえた。そして枕の分少し高い位置にある視線を確認すると、半覚醒の頭でほとんど無意識のように枕を優の頭の下から枕を引き出して自分の頭の下に敷き、自分のよりもほんの少し細い体をまるで労るようにぎゅうと抱き込んだ。

「…良かった、ちゃんと御神苗だ」

「何訳分かんねーこと言ってんだよ」


 夢をみたのだと言う。


「…御神苗に声をかけようとするのに、俺は御神苗の名前が分からない。携帯の履歴も名前だけがどうしても読めねえし、まわりが御神苗を呼ぶのにどうしても聞き取れない…」


というか名前のところだけまるでテレビの放送禁止用語みたいにサイレントになって…俺だけが御神苗の名前を呼べない。


「…変な夢…」


 しかしとてもタイムリーな夢であると思った。そういえばジャンほど俺の名前を呼ぶやつもいないかもしれない。ジャンの声を思い浮べても、まず先に好きだとか愛してるだとかの前に、御神苗、と呼ぶ声が浮かぶ。
 御神苗、何が食いたい?あれ録画しといてくれ御神苗。馬鹿野郎、だからオメーは甘ちゃんなんだよ御神苗…


「…俺が世界で一番御神苗の名前を呼びたいのに、俺だけが分からないなんて…」


 体を横たえたままであるのにその様子はすっかりうなだれている。前に落ちてきている髪を右手で掻き上げ、ふうと短く溜め息をつく。


「…嫌な夢だった…」

「良かったな、夢で」

「ああ…」


体を抱く腕に力が籠もる。優はジャンのはだかの胸に頬を擦りつけた。


「まだ寝る?」

「…まだ寝る」


 ジャンはくしゃくしゃと黒い髪を掻き混ぜるように撫でると、額に唇を押しつけるようにしてキスをし再び目蓋を引き下げた。


「おやすみジャン」


(……つっても腹減ったなあ…)


 目はすっかり覚めてしまっていて、お腹は少し鳴りだしてしまいそうな気がしてもう一度眠りに落ちる努力をした。


「おやすみ、御神苗。愛してる」


 名前を呼ぶ声の中は、それこそ無性に甘くて、何のどんな何よりも眠気を誘った。
 フランスは、午後から晴れた。















●2007年02月10日 
そんなつもりじゃなかったけれど「煙る〜」と対っぽい話に。
ジャンに比べて御神苗は淡白です。




●2007/07/18 修正
 2008/07/04 修正

<<<