Sensations compliquees.












Un bout du doigt.


 うたた寝、と、いうものとは無縁そうな鋭い目つきをしていたり燐とした横顔を湛えているくせに、その男は優が気がつくと割りと頻繁に惰眠を貪っていたりするのだ。
 寝息ともつかないような静か過ぎる寝息でもって、じっと、前のめりでソファーに深く腰掛けたまま眠っている。そんな彼がなぜこの部屋の中に主である優の許可も無く侵入し、又は侵入出来て更に眠っているのかは優が一番聞きたいことだった。
 しかし声を掛けても反応が無く、あまりに深くうつつの世界に入り込んでいるのを体を揺すったりまでして引き上げるつもりも起きない。任務明けのはずだ、疲れているのだ。ほとんど途方に暮れてその様子を見下ろす。

(…確か、ブランケットがあったよな)

優はそっと足音を立てないように、寝室へ捜し物をしに行った。

 ブランケットを見つけソファーの前に戻ると、相変わらず単調な呼吸を乱さずに寝入っている。男の前を離れる前と唯一違ったのは、軽く組まれた指が解れていたことだけだった。
 男は美しかった。普段は後ろで束ねている髪はほどかれ、その長い金髪は乱れていたが、決して粗雑な感じはしなかった。優はその指々の先を見つめ、ふと吸い寄せられるように指に触れた。しかし次の瞬間に優は驚いてブランケットを床に落し、すぐに手を引っ込めようとした。
 ジャンが優の指をつかんだのだ。確かに意識はないはずであるのに、その力はしっかりと意志があるように強く、優がその場を離れることを許さない。
 優はどきどきと高鳴る左胸を押さえた。つかまれた指先が酷く熱い。まるで指の先以外の感覚が麻痺してなくなってしまったようだ。早く離してほしい、ほしくない。
 優は悩んだがそっとその指を解しにかかった。しかしとても名残惜しくそっと外していった。本当はいつまでも握られていたかった。例えば今、このソファーのジャンのすぐ隣に腰掛け自分も眠れたなら。
 願わくばどんなに短い間でも傍に居たいから、傍に居たいと、言えないのだ。














Une blessure du bras gauche.


 医務室の奥では苦悶のうめき声。ジャンはそれを聞きながら紙コップのコーヒーを飲んでいた。それは決して悪い豆でもなければ特別滅茶苦茶な入れ方をしたわけでもないはずであろう、しかしなぜがとても、ジャンの舌には美味しいと感じられるものではなかった。


「っ…ってえ、…」


 阿呆だ、あいつは、とジャンはまたコーヒーを口に含んだ。足音はしない。割れたガラスから入る風の音がするだけだ。敵はまだ動かない。さっさと終わらせてくれ、とジャンは舌を打った。


「おい、御神苗、まだ終わんねえのか?」

「もう、終わる」


 奥に呼びかけると吐く息と混ざった辛そうな声が帰ってくる。ジャンは苛々と紙コップの中身を飲み干し手の中で空になったそれをくしゃりと握り潰した。置いてあったコーヒーを勝手に飲んだのだ。もうひとつのコップに用意したコーヒーは冷え切った表面にぼんやりと月明かりを映し揺らしている。しかしどうせ飲まないであろうと流しに中身を空ける。ばたばた、と音がして全てがステンレスに零れゆっくりと暗い穴の中へ吸い込まれてゆく。


「すまん、ジャン」

「もう良いのか」

「まあな。学ランが破けっちまった…」


 真っ赤な目をしてすん、と鼻をすすりながら奥から出てきた優の腕には適切に包帯が巻かれていた。腕の中で貫通せず止まってしまった銃弾をピンセットで取り出していたのだ。運良く医務室が近くてよかった、と優は荒い息で言った。


「奴らは?」

「さあな。まだ動きはねえ」

「そうか…」

「御神苗、顔色悪いぞ」

「当たり前だ。撃たれて嬉しそうにしてるやつがあるか」


 違えねえ、とジャンは鼻で笑った。優は流しの蛇口をひねり直接水を飲んだ。前髪と開襟シャツが濡れる。


「どうして気がつかなかった?」

「しょうがねえだろ、人間だもの」

「…なんだそれ。
…おまけにあんな弾避け損ないやがって…」


 その様か、とジャンはため息混じりに言った。優は少しむくれてうるせえ、と小さな声でぼそぼそと言った。しかし相変わらず額には汗が浮かび、打たれた左腕は重そうに力なく、指先がたまにぴくりと震える。ジャンは益々機嫌悪そうにため息をつく。


「お前みてえにすぐ治りゃな」

「残念ながらお前は人間、俺は獣人」

「……その言い方気に食わねえ」

「あ?」

「ジャンも、人間だ」


 ジャンは小さく目を見開いてから、暗闇の中で優に分からない程度に微笑んだ。いつだってそうだ。こういうことになるといつだって、今言うことではないのに、決してその場を逃さない。

(ジャン、お前が頑丈なのは知ってる)

(でもな、だからってそれは無茶して良いってことじゃねえ)

(撃たれりゃ血が出て痛えだろ)

(お前と俺、何にもかわらねえ)

 だから、


「御神苗、もう良いなら行くぞ」

「ああ」


 暗闇の中で合わせた視線は確かで、凛とした空気をまとったいつもの青年だった。ジャンは短く息を吐いた。ドアノブに手をかける。

(俺とお前が同じ?)

(馬鹿言え、大違いだ)

(お前は、)

(お前は俺をこんな風に思って見たことねえだろ)

(いっそここに置いて行くかな)

(出られねえようにぐるぐる巻きに縛って)

(もう、誰もお前を傷つけないように)

(汚ねえ手で触らねえように)

(俺にも、な)


「ジャン、どうした?」

「いいや、別に。足、ひっぱんじゃねえぞ」

「わかってるよ。お前もこんなにならねえようにしろよ」

 撃たれると、痛えからな。


 いっそもっと大きな傷を負ってくれれば、お前を危ないところから遠ざけられるのかと、ジャンは暗く重たいことを腹に抱えたままドアノブをひねった。
 護りたかった。我が侭だった。














Un profil.


 どこが一番好きだったか、と言えば横顔が好きだったのかもしれない。
 金髪が風に揺れて、日本人の自分には無い澄んだ水底のような瞳はどこか遠くを見つめていて、通った鼻筋は嫌味なく、長いまつげに感心した。
 そんな容姿をしているのに口汚いところがあって、たまに自分より向こう見ずで、丈夫な体をしている。丈夫だ、と彼は言うが、体以上にこころに問題があるように思われて仕方なかったが、自分にはそれをどうすることも出来なかった。自分はただの一仕事仲間に過ぎない。彼は外に出ることも、中に入れることも許してはくれない。孤独で、孤独を好む。
 しかしそれでも良いような気がしている。どれだけ隣に居ようと文句は言われない。いつまでも女々しくあの横顔をばれないように見ていられる。手は届かない。届かすつもりも、あまりない。壊れてしまうからだ。自分は隣に居ることすら許されなくなってしまう。
 自分は人といるのが好きだった。難しいことを抱えながらでも、馬鹿な話をしたりすることも好きだし、何も考えず黙って無駄に時間を過ごすことも好きだった。特に彼は特別だった。自分の裏の顔を知る、数少ない人のうちでも特に、勝手に心を許していた。相手はそんなことはなかったけれど。歩み寄ればここまでだ、と線を引く。自分はその線より向こうに足を踏み入れることは出来ない。無粋であるし、自信もない。

(甘いんだよ、お前は)

(いつでも助けてやると思うな)

(そのうち足元すくわれるぜ)

 助けて欲しいと言ったことは無い。それでも気がつくと自分は何度も何度も彼の背中を見ていた。彼はいつだって正面で向き合うようなことはしなかった。いつだって斜に構えて、自分をぶつけたり相手を受け止めようとすることをしない。

(俺は殺す)

(死んじまったら元も子もねえだろうが)

(だからてめえは甘いんだよ)

 俺はジャンの横顔が好きだった。それでもそれは、俺は横顔しかみていられないからかもしれない。横顔を見ているだけで、精一杯だからかもしれない。横顔しか、知らないからかもしれない。横顔しか、みせてもらえないから。














Les joues chaudes et futur chaud.


 自分より大切かと言えばそうではなかったかもしれない。

 生意気な横顔を見つめてはため息をつきそうになるのをこらえた。猫の眼のような燐とした眼差しを湛えているくせ、そのやり方は爪が甘く温い。いくつもの傷を指摘しても「それでも俺は殺さない」の一点張りだった。自分が怪我をするのは話が別らしかった。
 訳が分からない思想だと思いながらあるとき相手の頬の切り傷を指で拭ってみたのは考えのないほとんど衝動だ。驚いた顔をして普段よりいくつか高い声で「何だよ」と振り返り、血の霞んだ傷のある頬に指をそえた。動揺を隠すため別に、と素っ気なく返すと訝しげな顔をして短く鼻を鳴らした。
 温かく弾力があってやわらかい、まだこどもの頬をしていた。明らかに自分の指先とは違う。相手と自分とは何もかもが少しずれているような気がした。何か単純すぎて難しい感情ばかりが募ってゆくのが分かった。分からないふりをしてゆくだけで精一杯だった。
 生きてきた世界が違う。考え方が違う。今は同じ場所に立っているというのに青年は豊かな表情を湛え頬ですらあんなにもやわらかいのだ。

 (そんなやつが、戦場に出ていって良いのかよ)

 それはどこか嫉妬にも似ていたが、それは嫉妬ではなかった。嫉妬、というよりはあまりに純粋に、ただ羨ましさに似ていた。
 ジャンは無言のまま左右体の横に降ろした手の右の方を開いたり握ったりしていた。召集のアナウンスが入る。ジャンが歩きだすより先に優が前に足を踏み出した。ゆっくり、酷くひっくりと視界の中を黒い髪が動いてゆく。思わず目を奪われる。自分にはない意志の強い色。視界の端からはみ出てしまっても尚目で追い掛ける。指の先が疼いた。一体どれほどやわらかな髪をしているのだろうか。まどろむような艶にどうしても触れたいと半ば苛つきにも似た一瞬の衝動を押さえるのに意識を要した。
 確かにまだ自分より大切かと問えばそうではなかったかもしれない。しかしその頬や髪や視線に惹かれたのは、紛れもない事実だった。ジャンはゆっくりと優の背を追った。廊下を照らしだす白い照明が眩しかった。
 大切、と言うにはまだ形を成していない程の掴み所のない感情。ただ触れたい、とだけ思っていた。

 それがこれからどれほど自分自身を悩ますことになるかも知らずに。














Une actrice de l'ecran.


 うつらうつらしながら観ていたが、流石にクライマックスではある程度意識はしっかりしていた。男と女は深夜の街頭の下明かりに照らされて抱き合いキスをした。ちょうどその辺りで鼻をすする音がしているのに気が付いた。しかしそれまでの経緯をきちんと観ていないので、優にしてみればそれはテレビの昼過ぎのチープなドラマのクライマックスシーンと何ら変わりないように思えた。ここまで観て初めてちゃんと観ていれば良かった、と思った。
 大して流行った洋画でもなければ尚且つもう終了の時期だ。このスクリーンの前には優を含め15人ほどしか居なかった。


(どおせならもっと違う映画のチケットが良かったな)


 優は来る前に買ったミネラルウォーターをまた一口含んだ。すっかり温くなっていて何の味もしない。適度な空調が口の中を乾かすのだ。しばらくぼんやりとスクリーンを眺めた後、エンドロールが流れ出すと優はそのスクリーンの前を離れた。結局主人公とヒロインの名前しか覚えられなかったが、それだけでも上出来ではなかろうかと思った。それだけ優にとっては退屈な内容だったのだ。アーカムビルの受付嬢から貰った映画のチケット。それはあまり有効には使われなかったかもしれない。
 優は映画館から出ると自販機で缶コーヒーを購入した。先程の味気ないミネラルウォーターとは違い口の中を確かな甘さと苦さが満たしていく。優は特に意味もなくため息をつき、映画館のすぐ向かいに置かれているベンチの一つに腰掛けた。


 (なーんか…こんなだったら家でDVDとか観てた方がマシだったかも)


 受付嬢には悪いが、優は男女の苦悩を描いた映画で胸を満たせるほど大人でないのだ。ぼんやりと夕食と冷蔵庫の中身について考えだす頃、通りの向こう側が少し不自然な動きをした。
 一体なんであろうかと目を細めると、そこには見慣れた金髪のポニーテールが揺れていた。びくん、と、周りから見て分からないほどに小さく背中が跳ねた。悪寒に似ていた。その人はずっとこちらに向かっているようで、優が気が付いてから更に7メートルほどこちらに近づいてから優に気がついたらしい。表情は変えぬままそのままのペースで目の前まで歩いてきた。優はベンチに腰掛けたままその顔を見上げた。


「久しぶりだな」

「いつ来た?」

「昨日」

「ふうん…」


 気のない返事を返しながらも本当はこんな所で会うことになると思っておらず内心は一方的に嬉しかった。ついつい冗舌になる。


「今さ、映画観てきたんだ。あそこのポスターのやつ」

「へえ、どうだった」

「あー、まあ、微妙。俺はイマイチかなと思った」

 ジャンは少しだけ眉根にしわを寄せると、そうか、と息を吐きながら映画館の入り口の方を振り向きながら言った。

「今から観るつもりだったんだがな」

「あ、悪い」

「いや、別に。受け付けの姉ちゃんに誘われてな」

「何だよ、日本に来たかと思ったらいきなり女かよ」


 軽口を叩いたが優の中身は複雑だった。勿論相手はこちらがそんな気持ちでいることなど知らない。ジャンが好きだった。それこそ口には言い表せないくらい、微妙に淡く、そして柔らかく。口に出せば弾けて消えてしまいそう。


「お、姫のご到着」


 ジャンは笑って通りの向こう側を見やった。優は弾かれたように立ち上がり「じゃあ俺はもう行くよ」と笑った。いくつか引きつっていた。ジャンはああ、と返事をして特に意識もなく優と目を合わせた。


(見透かされそう)


 それからジャンはじゃあな、と無愛想に言うとくるりと身を翻し向こうへ歩いてゆく。優の目の前であまりに優雅に美しくひとつに束ねられた髪が翻った。優は急いで往来が主に流れ去る方向とは逆の方へ歩きだした。ヒールがこつこつと忙しそうに駆け寄るのを聞いた。後ろは振り返らなかった。


 『貴方に会いたかったのよ…』

 『ずっとずっと待ってた』

 『もうどこにも行かないで』


 (…映画、ちゃんと覚えてんじゃんかよ…)


 真夜中の街頭の下ブロンドが揺れていた。優はじっと、じっと地面と自分の靴の先ばかりを見つめて歩いた。









●Sensations compliquees. 【複雑な感情】


●Un bout du doigt.(=指先) / 2007年05月25日
こんなシチュは何度でも書きたい(笑

●Une blessure du bras gauche.(=左腕の傷) / 2007年05月26日
痛そうな御神苗が書けて満足(うわあ

●Un profil.(=横顔)/ 2007年06月02日


●Les joues chaudes et futur chaud.(=温かい頬と暖かい未来) / 2007年06月05日
触る、って、究極だと思う。

●Une actrice de l'ecran.(=映画女優) / 2007年06月11日

タイトルは一応フランス語。でもエセ。字が違うとこがあるのと翻訳サイトに頼ったので…多分すごくめちゃくちゃ…


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