【 7 】






 男は夕餉を取ったあい無しに、ちょっと出てきます、と言った。
 道は分かるか、ついていってやろうかと言うと、大丈夫だと言った。キャロルが玄関に向かう背中に、暗いから気をつけてね、と言った。すると男はいつものように少し目を細めて、遅くなるかもしれないけれど、戸締りはしておいてくれて構わないと告げた。アルが提灯を差し出して、ついていってやってもいいぞと言った。心配ない大丈夫だと微笑んで、提灯は手に取らなかった。十三は何かあったら一度帰って、そうすれば案内をするからと言った。
 男は本当に大丈夫だと、快活に笑った。




 寝ないの、とキャロルが部屋の障子を開けた。
 まあな、と頭の後ろで手を組んで更に足まで組んで布団の上に寝そべっていた隼人は、天井を見上げたまま答えた。階段を下ってくる音がした。やがて廊下が軋んで、キャロルが障子を開け頭を出して、どうしたの、と問うた。
別に、と答え、アルは障子を開けて部屋に入る。続けて「暇なんだ」と言った。ゆらゆらと、部屋を灯りが揺らす。
 久しく部屋に新宮家の子供が三人が集まった。三人ともで真ん中に敷かれた隼人の布団を囲むようにして座った。長男は胡坐を組み、長女は正座を崩し、次男は膝を抱えて座った。しかしとくに何も話すこともないので時間をもてあましてしまいどうしようかと思っていると、キャロルがふいに立ち上がり部屋に引き返したかと思ったら、花札を持ってきた。正月以来だった。そして素直に暫く三人して花札に興じた。一番成績がよかったのはキャロルだった。たまによし、とかああ、とか言いながらなかなか熱心に興じていたが、一瞬を境に止めてしまった。外ではひゅう、と低く高く風が鳴った。アルがもう寝る、と言って部屋に帰っていった。キャロルも花札を箱に戻すとそれを胸の前に持ち、おやすみ、と言って部屋を出て行った。

 部屋には再び隼人と静寂だけになった。

 灯り油が勿体無いと思い、ふっと吹き消した。室内は風の音と闇に落ちたが、それでもなかなか寝付けそうになかった。しかしもとより寝付くつもりもなかった。




* * *





 知らないうちに寝てしまっていたらしい。しかしどれだけ経っただろうか、急にはっ、と目が覚めた。ふいに勝手口の方で物音がしたので、急いで起き上がって廊下を歩いて草鞋を引っ掛け土間に出で、どこか恐る恐る戸を開けた。
 しかしそこには、去年の秋にすっかり枯れてしまい、男に圧し掛かられてところどころへし折られた哀れな柿ノ木の枝しかなかった。代わりに足元で、にゃあ、と三毛猫が鳴いた。隼人が抱き上げると、ごろごろとのどを鳴らした。抱かれたり触られたりするのが好きな愛想のいい野良が居るんだよ、と男が言っていたのを思い出した。ふわふわとした毛に鼻先を埋める。お日さんと土の匂いがした。夕方頃から吹きだした風ががたがたと家の壁を鳴らした。猫は歌うようになーう、と鳴く。
 暫く触ってから、隼人は猫を足元にそっと下ろした。猫は隼人の足に擦り寄ったりを繰り返していたが、暫くすると枝を上って塀の上を歩いて行った。そしてぴょんと塀の外側へ降りた。その後猫がどこへ行ったのかは分からなかった。
 隼人は勝手口の戸を閉めた。きちんと鍵もかけた。



 部屋に帰ってからもう一度灯り油に火を灯した。
 薄暗く部屋を照らすそれが、昔大嫌いだったことを思い出した。しかし反面、祖父がよく影絵をやって見せてくれたのを思い出した。自分はそれを喜んで見た。特に犬の影絵が好きだった。近所で「シロ」と呼ばれて飼われていた犬に、よく似ていた。  思い出して手の格好をしてみた。そっと手を皿に近づけた。壁にぼんやりと湾曲した影が映った。小指を動かして、影絵の犬の口をぱくぱくとさせた。

 がたん、と、勝手口の戸が鳴った。

 灯り油に火をつけたまま、出来るだけ静かに、そして出来るだけ急いで勝手口に向かった。




 男は酷い顔をして帰ってきた。
 顔は笑っているのだが、そこには疲れの色がありありと滲み出ている。ただいま、と一言乾いた声で発したきり何も喋らなくなった。黙って家の中に招き入れた。猫は、もうどこにも居なかった。
 居間に上がると、畳の上に崩れるように胡坐を崩したような形で座った。手には黒い布を持っている。装束か、ときくと否定することも無く素直に縦に首を振った。隼人は灯り油に火をつけた。そして、黙ったまま自分の部屋に灯けっぱなしにしてきた火を消しに行った。
 居間に帰るとひたすら目をつぶって、首を下に垂れている男の姿が目に入った。最初に勝手口に倒れていたときと、よく似ていた。まるで死んでいる、ようにも見える。しかし穏やかでもある。隼人は断ることもせずその側に座った。そうして、しばし沈黙した。

「なあ」

 先に言葉を発したのは隼人だった。男は少しだけ首の角度を上に上げた。

「おい」

男は顔を上げ、ひどくゆっくりと目を開けた。光に照らされても、やはりどこまでも黒い瞳だった。底がない。

「返事くらいしろ。俺が一人で喋ってるみてえじゃねえか」

「すまん」

 さっきよりももっとかすれた声だった。隼人は酷く苛々とした。そんな空気を悟ったのか、男は疲れた顔のままへら、と笑った。

「笑うな」

 なぜか酷く、酷く苛々とした。

「そういうの、おかしいと思うぞ」

「……?」

 男は不思議そうに隼人の顔をぼんやりと見ている。

「ちゃんと聞きやがれ」

 男は小さく開いていた唇を、きゅっと閉じた。

「ぶっ倒れてたお前を家に運んでやったのはどこのどいつだ」

「……」

「寝床貸してやってんのはどこのどいつだ」

「……」

「飯食わしてやってんのはどこのどいつだ」

「…すまん」

そういうことを言ってるんじゃねえよと、つい声に苛立ちが滲む。

「俺たちだろ、それ」

「ああ」

「だったらおかしいだろ」


 何をするのかは言えなくても、せめてどこへいくかくらいは言え。
笑いたくもねえのにへらへらするのも止めろ。嫌なら笑うな。物事は正直に話せ。それがせめて、ひとつの家のなかで暮らしてる人間同士がして当たり前の礼儀というものではないのか。
 隼人は大体、そんなような意味のことを言った。珍しく生真面目に説教を垂れている自分に羞恥を覚えている暇などない。腹の中は煮えている。理由は定かでない。しかしもう、関係がないとは言い切れないところまできている、それだけ感じた。

 男は下を向き、また黙ってしまった。隼人は立ち上がりそんな男を見下ろして、くるりと向きを変え居間を出て炊事場へと向かった。
 暫くすると隼人は、右手に茶碗二つと箸を二膳、左手に急須を持って現れた。そうしてそれを男の前に置いた。もう瞳を閉じてはいなかった。ただじっと、難しい顔をしたまま下を向いている。その男の横にはまだ黒い装束が置いたままだった。それはまるで射落とされた大きなカラスのようだった。隼人にはそれが何かとても恐ろしいものに見え、無理矢理視線をそこから引き剥がした。
 茶碗と箸と急須を置いて、もう一度炊事場から帰ってきたとき、隼人は飯の入ったお櫃と漬物の乗った小皿を持っていた。そうしてそれもみんな置いて胡坐を組んだ後もう一度立ち上がって、しゃもじを取りに、再度炊事場へ向かった。
 お櫃に入った白飯は男が出て行った後、隼人がキャロルに頼んで炊かせたものだった。キャロルも理由も聞かず三合くらいかな、なんて言いながら米をかした。急須の中の緑茶も同様、キャロルに作ってもらっておいた。
 相変わらず黙って下を向いている男を気にしながら、隼人はそれぞれの茶碗に飯をよそった。そうしてそれを畳の上に置くと、飯の上に切って持ってきた漬物を乗せ、上から茶をかけた。茶はすっかりと冷めていた。温めるのは、面倒だった。


「食え」


 片方の茶碗と端を差し出すと、男は顔を上げ、そして手を伸ばし、箸と茶碗を手に取った。隼人も畳の上から自分の分の茶碗を持ち上げ、漬物を齧り茶碗のふちに口をつけ、箸で適量口の中へとかき込んだ。男は暫く茶碗の中を見ていたが、箸で漬物をつまみ、ほんの少し端を齧った。灯り油にともった火は、二人が米も茶も冷え切った茶漬けを啜る影を、時折ゆらゆらと揺らした。ただ只管黙ったまま食った。隼人にしたら夕餉を取って、それに追加だ。さして美味いとも感じないが不満を漏らすこともなく啜る。

 空になった茶碗を前に、男はいくらかましになった顔で隼人を見た。ひゅう、と外で風が鳴った。そうして男は酷くゆっくりと目を閉じた。


「女を、抱いたことがあるか?」


 男はゆったりと目を閉じたまま言った。濃い睫毛が目立つ。隼人はとても静かな心もちだった。男から目を逸らすことなく、いいや、と答えた。


「俺は、ある」


 一度だけ、と言った。そうして、あんなことはろくでもないと付け足した。


「ろくでもないと思うんだよ。でもな、たまに」


 無性に抱きたくなるんだよ。
 ふう、と息を吐き出して言う。体が疲れるというよりも、近頃では頭とかこころとかいう所が疲れることが多くなった。それもくたくたに疲れると決まって何故か、無性に女を抱きたくなる。朝までずっと、布団の上に柔らかい体をねじ伏せて、乳房に吸い付いて、啼かせてやりたいと思う。本当に汚いことだと思うのに、したくてしたくて、たまらない時がある。静かに平坦に言うと、男はやっと隼人と目を合わせる。


「…今日も抱いたのか」

 男は横に首を振る。

「思うだけで、未だに一度も無い」

 度胸がないからな、と言う。少し目を細めた。

「初めての相手が、」

 お前なら良かったのになと、男が言った。
 おどける様子も自嘲する様子もまったく見せず、ただじっと真っ直ぐ隼人の目を見て言った。男が何を言っているのか分かっていた。それでも、じっと目を見返した。


「俺も、そう思う」


 自分が何を言おうとしたかも、言ったかもちゃんと分かっていた。それでも、もしこの男に抱かれる最初の人間が男であるこの自分だったなら、この男はもう少しましな人間になったのではないだろうかと、あらぬことを考えたりしていた。
 隼人は男の茶碗半分ほどに飯をつけ、漬物を放り込むようにして茶碗に入れ、上から茶をかけた。男は再び箸を持って茶碗を持ち上げ、口をつけた。そうして隼人も右膝を立てた格好で、自分の茶碗に新たな茶漬けを作った。
 江戸に来た用事は片付いたのだが、まだこの家に居ても良いかと問われた。隼人は茶碗の中の米を啜りながら、男の右手の指の間の赤黒いものを見て見ぬふりをしながら、黙って頷いた。
 装束は、男が寝付いてから出来るだけ小さく解体し、夜が開ける前に家の庭で小さな火でもって燃やした。鉄臭さが鼻を掠めた。何度も手を洗った。男の言ったことばかりを、繰り返し頭の中で思い出していた。
 長かった夜が終わった。

 それから一年後、河原の側のあばら家で見事な白骨体が見つかる頃にはもう、男は江戸には居ないのだろうが。























●2007年2月16日 
原型が出来たのは上のこの日付よりずっと前。
文が古いです。


20080404 若干の加筆と修正





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